自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

ホビー・ライティングの広場

人生

物置

西條恭子

 長年住み馴れた借家から、やっとささやかな家を建てて引っ越すことになり、捨てるもの、もってゆくものと物置を整理しはじめると、元来ポイポイといさぎよく物を捨ててしまう私でも、一つ一つそれぞれにまつわる思い出があり、さながら物置が古いアルバムのようで、想いは十年前、二十年前と行きつ戻りつして、中々仕事がはかどらない。
 まだ二人の子供が幼児の頃、それにも増して母親の私の分別は全く幼くて、躾と自分の感情がごっちゃになって、二人の子供を物置に押し込めたことがあった。
「二人で揃って謝らなければ出してあげません」
 と暗い物置の前に仁王様のように立ちはだかっている母親の前で、上の女の子はこぶしを握って歯をくいしばり私をにらみ、下の男の子は切れの長い目に一杯の涙をうかべて、
「お母さん、ごめんなさい、もうしません」
 と丸い手を床に並べて、隣で歯をくいしばっている上の子に、
「お姉ちゃんも早く謝ってよ。お母さんこれはお姉ちゃんの分です。ごめんなさい。ごめんなさい」
 と余分に謝り泣きじゃくる。その姿にほだされて、鍵を開けたことがあった。
 二人分の涙かと思うほど大粒の涙で頬をぬらした男の子は、あの時から三十年、いまだに自分の進むべき道を探しあぐね、親のすねをかじりかじり、さっぱり巣立つことを知らず、弟に自分の分も謝ってもらった女の子はさっぱり女らしからぬ女になったが、がんばりが良くきき、アレヨアレヨと思う間に自分で行動を決定し、社会の中を泳いで親の意見はすべて事後承諾となっている。
 もう物置へ入れて折檻する勇気も元気もどこへいってしまったのか、母親の私は心の物置から古いガラクタを捨てきれずうじうじと寂しがったり、むなしがったりして老いを迎えている。

寸評
手慣れた文章で構成もきちんとまとまっています。物置が「古いアルバムのよう」という導入部の比喩は卓抜で、続いて物置自体が思い出の一こまとなる話の流れはよどむところがありません。親の目からはいくつになっても子どもは子ども。しかしその子供時代から今日を予見させるものがあったことに今さら気づくひととき。さりげない文体に母としての万感の思いをゆかしく秘めた秀作です。


勉強

 大阪の印刷所で校正のアルバイトをしていたころ、仲間の一人に勉強好きな男がいた。名をYといった。
 Yはある国立大学を出たのち、就職らしい就職をせず、三十を過ぎても、外国語印刷物の校正をしながら大阪の私大の夜間部に通ってドイツ語を学んでいた。
 最初の大学時代の専攻はドイツ語ではなかったが、第二外国語としてかじったドイツ語に興味をもち、卒業後、改めて学ぶことにしたという。以後、約十年間、彼の話では、家庭教師とか運送屋のアルバイトとかをしながら、独学の日々を送ったとのことだった。
 ドロップアウト組の私などとちがって、ちゃんと大学も卒業しているのだから、しかるべき就職をして、ドイツ語が好きならドイツ語の本を買ってきて趣味で読んでいればいいではないかと彼に言ったことがある。その時の彼の返辞は、
「ドイツ語が好きなだけじゃない。わしは勉強が好きで、学校が好きなんじゃ」
 というものだった。

 Yは中国山地の寒村の農家の次男だった。高校三年の時、進学希望を表明すると、家族も親戚もそれを認めなかった。経済上のことがむろんあったが、それ以上に、「分不相応」なことを身内の人間にさせまいとする因循な抑圧が加えられたのだと彼は説明した。親戚の中の長老格の伯父は、
「借金だらけの百姓のせがれが、大学やこう(なんか)行って、どうすんなら」
 と苦々しげな言葉を吐いた。
「なんでわしが大学へ行ったらいけんのんなら(いけないのか)!」
 即座にYは言い返した。Yはもともと親戚の誰をも好いておらず、彼らの「意向」に耳を貸すつもりなど毛頭なかったのである。彼は奨学金を受け、苦学してその大学を卒業した。

 バイト先の印刷所では、努めて穏和で謙虚な態度を見せていたが、じっさいの彼の性格は狷介だった。他に対して腰が低すぎるほどに見せていたのは、性格に癖があることを彼なりに羞恥しての工夫だったろうが、それが徹底したものでないことは、少しつきあうとすぐに分かった。
 その穏やかそうな笑顔は、時として「嗤い」の顔だった。そんな時、そう見られないように内心懸命な努力を払いながら、本心が伴わないことに苦労している様子だった。こういう人がいるのだな、と私は思った。
 夜学では、読解担当の講師の講義内容に誤りがあると、徹底的に攻撃するのだと言った。一時限の大半がそれでつぶれてしまったりもするとのことであった。私は、痩せて小柄なYが、どんぐり眼をむき、口角沫を飛ばして言いつのっている姿を想像した。

 印刷会社に、妙に調子のいい若い電算写植入力のオペレーターがいた。道化ぶった言動で人を笑わせる男だったが、自分の持ち場だけにとどまらず、社内の仕事全般に腰軽くよく働いた。ただ、「他から軽く見られながらじつは人一倍仕事ができる」ことの自負が見え隠れするタイプで、彼の軽口の中にもまた、屈折した「癖」が感じられた。
 この口八丁手八丁のオペレーターは、校正アルバイトのYに対し、一応学識ある年長者への礼をもって接していた。Yの方でも「正社員」のオペレーターに、常に敬語を用いて話していた。二人は心中では互いを無縁の者とみなしながら、表面的には私を接点にそこそこくだけたつきあいをしていた。社内での「底辺同士」の意識だけがとりもつ、憂さ晴らしのつきあいであった。
 ある時、三人で呑んだ後、オペレーターがYのアパートに寄りたいと言い出した。Yは、翌日の講義の下調べをしなくてはならないが、少しならいい、と応じた。
 彼の部屋は学生の下宿部屋そのもので、柱から柱へ洗濯物が吊され、隅には鍋釜が転がっていた。そしてたくさんの書物があった。語学の勉強の仕方などについて私と彼は少し話をした。オペレーターは会話から外れがちだったが、やがて勉強とは関係のない話を始め、われわれもそれに応じて酔いの続きの談笑をした。女の話か何かだった。
 時間が経過した。私は再三辞去を促したが、オペレーターは立とうとせず、平気でへらへらと話し続けた。
 Yはだんだん迷惑げな様子を見せはじめ、そして明日の下調べをすると言い出した。オペレーターは、
「Yさん、勉強なんてせんかてええやん」
 と、さらに酔いを見せた。そして、
「勉強なんかしてどうすんの」
 と小馬鹿にしながらからむ風だった。邪魔をしてやろうとの意図が明白で、暗い衝動が見えた。
「どうもせんけど、わしゃあ勉強が好きなんじゃ!」
 机についたYが、怒気を含んで言った。私は力づくでオペレーターを連れ出し、退去した。

 Yは、ドイツ語を生かして何かの職に就こうなどということは、ほとんど考えていないようだった。助手か何かで大学に残れればいい、というようなことを言ったことはあったが、年齢のこともあり、特にそれを望んでいる様子ではなかった。また、その圭角のある意固地な性格からして、序列と人間関係がうるさいといわれる学者の世界でやっていけるわけがないことを、彼自身承知しているようでもあった。
 ただ、金を貯めて、ドイツに二年ほど留学したいという希望をよく語っていた。そして帰ってきたら、学校の用務員のような仕事を探して、なにかしら学校にずっといられる仕事をしたいと言うのだった。学校にいて、一生、何でもよいから「勉強」をしていたい、と、いくらかかたくなさを敢えて示す風に、彼は言ったものだった。

 その後、長く会っていないので、Yが留学したかどうかは知らない。彼にからんだ写植オペレーターは、その後転職して、まったく畑違いの、居酒屋チェーン店の店長になったと風の噂に聞いた。


二つの扉?双子について?

鶺鴒

・双子??同じ母の体から一度に生まれた二人の子

 1986年1月1日、私たちはこの国の一隅に呱々の声を響かせた。
 双子というとポコポコいっぺんに生まれると思われがちだが、私は朝、妹は3時間後の昼に生まれた。二卵性双生児だった。
 二卵性双生児とは、いわば時を同じくして生まれる兄弟姉妹なのだそうだ。でも私たちはふつうの「姉妹」とは違う何かで結ばれているような気がする。「姉妹」以上「双子」未満という感じだ。
 私は「えり」、妹は「ゆり」。いかにもの命名だが、父母が私たちの幸せを願い姓名判断でつけてくれた。ところが、母は今では後悔しているという。「えり」と「ゆり」では呼ぶのにまぎらわしいからだ。
「ごんべえとさぶろうにすればよかったなぁ」
 母は半分冗談、半分本気の顔で私たちに言う。

 名前といえば、私は小さいころ、自分の名前が一時嫌いだった。ゆりと口げんかするとき、「えりまきとかげ!」と言われるからだ。さすがに中学生になった今はそんなことは言わないが、小学生の時はくだらない口げんかばかりしていたのだ。だから、今考えるとばからしいが、「ゆり」が付くいやな言葉を一生懸命考えたものだ(いまだに考えついていない)。

・似てる? 似てない?

 一卵性双生児ほどではないまでも、やはり容貌はそこそこ似ているらしく、よく人にまちがえられる。でも、付き合いの長い仲のいい友達などは迷うことなく見分けてくれ、そういう人が増えることは私たちにとってすごくうれしいことなのだ。まだ見分けられない新しい友達が、クイズのように「こっちはゆりちゃんやろ?」などと当てにくるのもけっこう楽しかったりするけれど。
 学校では同じクラスになったことがない。「一回こっそりクラス変わってみなよ。おもしろそうやん」と、友達によく言われる。じつは私たちもやりたいのだが、いまだに実行したことがない。でも塾(塾では同じクラス)で一度、誤って(本当に)席をまちがえて座ってしまい、
「今日一日、私、ゆりちゃんになるわ」
 と、調子にのって私たちは席を入れ替わったままでいた。授業を始めた塾の先生は気づいておられない。そのうちけっこう時間が経って、いつか私は自分の席がゆりちゃんの席だということを忘れてしまっていた。
「それじゃあ、この答えを……えり」
「はい、えっと……」。
 時間が止まった。みなさんももうお分かりのことだろう、そう、ゆりになってるはずの私が答えようとしてしまったのだ。えりに当てたのにゆりの席にいる方が答え、それがえりにもゆりにも似ている顔なものだから、先生はなんとも中途半端な表情だ。
「ゆりちゃん、違うよ。当てられたのは私よ。えっと、答えは5」
 と、ゆりちゃんのナイスなフォロー。でも入れ替わったことを知っている友達が大笑いしてしまったので、先生もいたずらに気づかれたことだろう。

 今では瓜二つとまでは似ていない私たちも、赤ちゃんのころの写真ではよく似ている。アルバムを見ているとおもしろい。自分がどっちかわからないし、どっちにしてもすごいブサイクだ。ブサイクというのは、つまりブーなのだ。腕なんかはちきれそうな感じがする。かわいい洋服を着せられているからよけいブーに見える。そんな写真を見ながら、
「なんで私たち、赤ちゃんのころこんなに太ってたん?」
 と母に聞くと、
「お母さん、赤ちゃん育てるの初めてやったから、どれだけ食べさせたらいいのか分からんかってん」
 なんだか、笑えない答えだった。

・方向音痴

 あくまでも私たちの場合から推測するだけなのだが、双子は顔だけじゃなくいろいろなものの好き嫌いもかなり共通しているように思える。好きなアーティスト、好きな色、食べ物がほとんど同じだ。私が好きでゆりちゃんが苦手なものといえばトマトだけ。ごはんのおかずにトマトがあると自動的に私のものになってしまう。でも違うのはそれくらいで、ほかには思いつかない。
 好き嫌いのほかにも共通点はたくさんあって、困ることもある。なかでも方向音痴なところがそっくりなのは悩みの種だ。いつも二人で遊びに行くが、目的地をめざしているつもりで同じ所をグルグル回っていることがしょっちゅうある。
 中学生の今は姉としてゆりちゃんをしっかりリードしようとしている私だが、小学生のころには本当に二人で迷子になってしまったことがあり、その時のことは忘れることができない。なぜなら、ゆりちゃんに本当に迷惑をかけてしまったからだ。
 あたりがすっかり暗くなってしまって、心細くてとうとう私がワンワン泣きだした時、ゆりちゃんは泣くこともなく必死に知らない人に道を聞いてくれていた(どっちが姉や!)。そんなゆりちゃんが、
「こっち行ってみよう!」
 と言った道があった。だが、その道は暗くて、すごく長そうにみえたので、私は、
「いいえ、こっちよ。こっち行こう!」
 とゆりちゃんが言ったのとまったく逆の道を指さした。しかし、
「違うわ、こっちが家に帰れる道やって」
 そうゆりちゃんに否定されて、私は何を思ったのか大声で、
「違う、違う!」
 と泣き叫んだ。そして、しぶるゆりちゃんを引っ張るようにして自分の思う道を行った。けれどあたりはどんどん暗くなってもう何も分からなくなり、結局は、なんとも恥ずかしいことに、お巡りさんのお世話になってしまった。その後、母にめちゃくちゃ怒られたことはいうまでもない。後で調べると、ゆりちゃんが「こっちだ」と言った道を行けば家へ帰れていた。

 私たちの方向音痴には父も母も困っているようだ。
 ある日、学校から帰ると、母が「ちょっとこれ見なさい」ととても興味深そうな顔をしてテレビを指して言うので「なんやろ?」と思ってウキウキして見ると、「方向音痴大研究」という視聴率の低そうな番組だった。しかし母はビデオにとっていた。私は、ちゃんと(?)10分くらいはがまんして見たが、ゆりちゃんはまったく見ていなかったような気がする。

・ケンカ

 私は妹をゆりちゃんと呼んでいる。妹は私をえりちゃんと呼んでいる。「なんで姉妹やのに『ちゃん』」づけなの?」と聞かれると困る。姉妹じゃないよ双子だよー(かえるじゃないよあひるだよーみたい)。そんな変な理屈からかもしれない。
 ゆりちゃんと遊ぶのが一番楽しい。好みも合うし気をつかわなくてもいいから。こう書くとすっごいシスコンって感じだけど、まったくその通りかも知れない。もし一人っ子だったら、私の人生はガラリと変わっていたことだろう。

 私たちは部屋が同じだ。時々、自分一人の部屋がよかったなって思うこともあるけど、部屋を一緒にしたのは私たちが決めたことなのだ。寝る時も、その日あった事などをずっと二人でしゃべり続ける。じゃあいつ寝るんだ!と言われるだろうが、ほとんどのパターンは母が怒りに来るか、ゆりちゃんが黙り込む……。
「?やなぁ」と私が言うのに、ゆりちゃんは眠くなると、黙るっていうかシカトするのだ。「私、もう眠たいねん」などと言ってくれたらいいのに、シカトするなんて。そんなとき、朝になったら「なんでシカトするんよ」と怒ろうといつも思うのに、朝にはすっかり忘れてしまっているのだ。

 私たちは本気のケンカもするが、朝になったら忘れてしまって仲良くなる??こう言うとただ記憶力が悪いだけみたいなので、本当のことを言おう。お互いに忘れたことにしているのだ。
 私はケンカした次の朝、ゆりちゃんに話しかけるのにすんごい緊張する、きっとゆりちゃんもそうなんだろうなぁ……。

 ケンカは兄弟、姉妹間では日常生活の一部のようなものだという。私たちも小学生の時は毎日のようにケンカをしていた。特にたたき合いのケンカはすごい。長いときには3時間ぐらいもやっていたと思う。ゆりちゃんが私をたたいて、こちらが仕返ししないうちに、母に「やめなさい」と止められるほどイライラすることはなかった。でも、母が止めてくれないと逆に「はやく、とめてよ?」と思ってしまう情けない私(ゆりちゃんもだろう)だった。

 ケンカといえば私はゆりちゃんとよりも母とのケンカの方が何倍もすごい。
 自分が母とケンカするのはもちろんいやだけど、ゆりちゃんが母とケンカしているのを見るのはもっとつらい。口出ししたら「あんたには関係ないでしょう」と母に言われるけれど、やっぱりゆりちゃんを助けたい。ゆりちゃんが泣いてしまったら私も泣いてしまう。何で泣いてるのかは自分でもよくわからないけど、自分が怒られた以上に泣いてしまうのだ。もちろん私と母がケンカしている時ゆりちゃんがなにか言うと、母から「口出ししないの」と言われる。

・一人っ子、二人っ子

 つい最近のこと、友達とケンカ状態になってしまった。
 これまでずっと仲良かった子たち二人に、私たち二人はなぜかそっけなくされるようになった。最初は悲しかったが、やがて悲しみが怒りの感情に変わっていくのが自分で分かった。よし、もう嫌われてもいいと思った。そんな状態が続いた。
 でも、話し合って、互いに自分の気持ちを伝え合うことにした。電子メールでだ。その友達二人とはメールの交換をもともとしていたので、手段としてはうってつけだった。口では言えない私たちの本音を相手に伝えた。
 返事を待った、久々にとても緊張した。すごく怒って、もう口も聞いてくれないかも知れない、きつい書き方をしてしまったんじゃないか……。
 すぐにメールが帰ってきた。読んで涙が出そうになった。
 いつもは強気な友達が、心から謝ってくれていた。そして、
「メールをくれて、本音を言ってくれてうれしかった」
 と言ってくれたのだ。感動してしまった。
 友達の本音のメールは私たちにいろんなことを教えてくれていた。
 私は、「自分にはゆりちゃんがいて、ひとりぼっちになることはないから、二人に嫌われてもかまわない」と思っていた。ところが二人の友達はそれぞれに、そのことに不安を感じていたのだという。「えりちゃんとゆりちゃんのためには、私なんか別にいなくたっていいんじゃないか。ジャマなのじゃないか」。そんなことを思っていたそうだ。
 ひとりっていうのがどれだけつらいかということについて、私たちはほとんど無知だった。
 友達の誰に嫌われても、私にはゆりちゃんがいる。ゆりちゃんはいつも私の味方だ。でも友達は違う。嫌われてしまったらひとりになってしまうのだ。だから、嫌われないようにムリしていたそうだ。私はそんなこと考えたことがなかった。周りが見えてなかった。
 反省した。メールの返事には、
「本音を言っても認め合える、信じ合えるような友達になろう」
 と、書いた。
 今ではすっかり仲直りして楽しい日々を送っている。その友達と話して笑っているとき、ふと《あの時本音を伝えてよかった、こんなに大好きな友達をなくさなくて本当によかった》と思えて心が暖かくなる。

・いつまでも

 大切な友であり、大切な妹のゆりちゃん。でも、私たちが成長するにつれて、離ればなれになる日が近づいてくる。
 いつも二人一緒に、同じことをしてきた。一緒にお菓子づくりをした、一緒に編み物をした、一緒に勉強した、一緒に交換日記もした、一緒にテレビで笑った、一緒にたくさんの映画を見た、一緒にコンサートに行った。
 ??何もかも一緒だったのに、それが当たり前だったのに。でも今は違う。一人一人違う道を歩みはじめている。
 私は小説を書き、ゆりちゃんは……きっと怒るだろうから秘密にしておこう。

 これまでは、私が始めたことはゆりちゃんも始めるし、逆にゆりちゃんが始めたことはやっぱり私も始めていた。よく考えるとこれも本当にめずらしいことだったと思う。でもこれからはそうはいかない。
 大人になっていくにつれて、ものの考え方や感じ方などで違うことがどんどん増えていくと思う。なんだか寂しい気もするけれど、私は私なのだ、それだけは言える。
 ゆりちゃんとは違う私。双子は同じ母から生まれてきただけであって、二人で一人じゃない。双子は決して分身なんかじゃない、二人の人間なんだ。歩んで行く先(未来)には二つの扉がある。その一つを私、もう一つをゆりちゃんが開くのだ。「別々の道を共に歩んでいく」??ちょっと変な言葉だけど、それでいいと思う。
 大切な友、大切な妹のゆりちゃん??違う道を歩んで、生活環境やものの考え方が変わっても、この気持ちだけは変わらないことをここに誓いたい。

 このエッセイをゆりちゃんに見せるのは照れくさいけど、2001年1月1日、私たちが15歳になる日に、そっと見せてみようかな。

 この世に人として、双子として、ゆりちゃんといっしょに生まれてきてよかった。

寸評
二卵性双生児という姉妹の関係。それをかけがえのなさの象徴に置き換えた作者の感受性を通じて、人間同士の一般的な関係をもしみじみと考えさせてくれる、心の「豊かさ」にあふれた作品です。人と人はもともと強い絆(きずな)をもつこと。生きていくうえで別れがあること。けれども絆のかけがえのなさは不滅であることを素直に謳(うた)い上げていて、ローティーンの文章にのみ可能ともいうべき大きな感動を与えてくれます。


茜さす闇照らされど……

近藤正則

 平成16年10月23日の夜は、酒、火、携帯電話、そして友人に温められた、一生忘れることの出来ない夜となった。

 この日、僕は新潟県中越地震で被災した。
 その夜、心底冷え切ったグラウンドの上で、手馴れた手つきで火をおこし、酒を片手に友人と地震の恐ろしさや友人の安否状況などを語りながら、心の中で膨らんでいく不安を消し去るために、通話状態の悪い携帯電話をもう片方の手に取り、通話ボタンを押したり、メールが届いていないかセンター問い合わせしたりと、何度も単調な行為を繰り返していた。
 人は予測不可能な事態に陥ると、意味のない単調な作業を繰り返したくなるようだ。ハムスターが籠の中でひたすら同じ所を走り、サークルを回しているように、何も考えず、携帯電話をひたすらいじっていた。携帯電話をいじることによって脳のある部位に与えられる刺激が、不安という気持ちが膨らむことを抑制しているのだ。子供が針で風船を突いて割るように。

 自然は暗闇色の液体を地球の上からとくとくと注いでいる中、グラウンド周辺では、焚き火の明かりと人間が発明した光のみが僕に視界を与えてくれていた。空には、カシオペヤ座等、秋の星座が定められた位置で、しかるべき光りを放っている。
 僕には数多くの語りたい不安がある。数多くの疑問がある。「なんで」と。どこかに頑丈な排水溝のようなものを作ってもらえれば、不安や「なんで」という疑問符が、そこから流れ出し、僕は安堵感を得るはずだった。明日から当たり前の生活を送れるはずだったのだが。しかし残念ながら、そんなことは起こらなかった。実際には僕は、その日はラジオから耳に入ってくる地震情報に一喜一憂しながら、素直にその情報に従い、安全のため、車内で一晩静かに過ごした。

 実を言えば、その車内には不安色の冷たい空気がまだ色濃く残っており、ふと考えている自分の存在に気付いてしまった。予測不可能な事態……「なんで」……「また」……「死」の訪れについて。
 そのような悩みは僕とは縁のないものだった。特に「死」など考えたこともなかった。問題はむしろ「死」という人生の目的地についてこれまで考えなさ過ぎたことだった。自分にとって「死」を考えることが必要なのか不必要なのかを、上手く見極めることができなかった。「死」について考えること、それは、決して無駄ではない。僕の不完全な人生から全ての無駄を省けば、それは不完全でさえなくなってしまう。思考回路は留まることを知らず、その自転速度を増しながら、回転を続ける。

 予測不可能な事態に陥り、不安や焦燥に駆られ、初めて死を意識し始める。僕の死は実現しなかった。実現しなかったからこそ、僕は真剣に頭の中で考えることができる。そして、今、考えている。死について。

 ……茜さす闇照らされど。


あの頃

近藤正則

 久しぶりに会った友人は、「変わってないなぁ」と口を揃えて言う。けど、それは綺麗なウソ。お互いに経験してきた分だけ、あの頃とは違う「何か」を背負っている。

 僕は一九八〇年の春に生まれた。一九八七年に小学校に入り、八〇年代の空気を思いっきり吸い込んで、背伸びして大人の音楽に酔いしれていた。レベッカから尾崎豊、ブルーハーツまで、BGMはばっちりと揃っていた。そして、年号を二桁で管理しているコンピュータが西暦二〇〇〇年を一九〇〇年と誤認してしまう恐れがある年に二〇歳を迎えた。

 そんな僕は現在二五歳。この歳になると、何度か同窓会を経験するようになる。だから、このようなメールを頻繁に目にするようになる。


題:飲み会
日時:八月一八日(水)、午後六時開始
場所:駅前の白木屋
予算:五〇〇〇円
幹事:柴野

「カンパーイ!今何してんの?大学院生かぁ・・・すげぇなぁ。え?俺?俺は、まあ、プータローだよ。いわゆる」と、こんな会話が連綿と繰り返されるわけである。合間合間に昔話を優しく挿みながら。
 西原敬介・二五歳。職業・無職。現在、人生を見つめて深酒中。
 西原は僕の中学時代の同級生である。彼は、僕に頻りに「変わってないなぁ」と言ってくる。僕は、彼に「将来はどうするの?」「国民年金は払ってんの?」「NEETって言葉知ってる?」と質問を投げかけるが、彼は「うーん」の一言で全てを闇の中に飲み込ませてしまう。
 この手の男が頭の中で一体何を考えているのか、僕には想像もつかない。社会の入り口で立ち止まる彼は、一体何を考えているのだろうか。

 僕は別にラディカルな考え方をする人間ではないし、夢想的な人間でもない。といっても保守的なわけでもなく、ただ現実的なだけなのだ。だから、先のような質問を当たり前のように投げかけるのだが・・・彼はどうやら気づいていないらしい。
僕等の間で何かが変化し始めていることを。いろいろなものに保護されない、もっと大きくて、もっと現実的な社会という現実の乾いた空気がそこに音もなく滑り込み始めていることに。
 何かが具体的に一挙に変わったわけではなかった。というよりむしろ、あまりにも変わらなさ過ぎていた。彼の話し方、話題、それについての意見‐それらは昔とほぼ同じだった。まるで、彼の全てが「いくつになっても、変わらずにいたいよ」と、僕に同意を求めているようだった。僕には自分が以前ほどはその世界にとけこめなくなってきているように感じられた。おそらく、僕の方が変わったのかもしれない。
 そんなことを考えている最中、あの頃、皆で口ずさんでいたナンバーが有線放送から流れてきた。
 あの頃とは違う。わかっている。だけど、あの頃口ずさんでいたナンバーがかかれば、心の荷を降ろして、ほんのひととき、あの頃に戻り、楽しむことができる。懐かしいリフレインに耳を傾けて・・・・・・