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いい文章を書きたい!!

普通の文章を

  • まず、普通の文章を書けるようにならなければならない。普通とは「普く通ずる」の意であり、最も強固であることを意味する。普通ということの深い力を、常に認識して、実現していくように努めるのである。
     普通の文章とは、冷静で、的確で、過不足のない文章である。そしてなによりも、客観的な文章である。水が高所から低所に流れるような、当たり前の文章であるが、錬磨なくして書けるものではない。
  • 次に、執拗なまでに緻密な文章を書けるようにならなければならない。これは、普通の文章の延長線上にあるものである。ひとつのことを、より普通に書こうと努めることにより、文章が緻密になる。こう言うと、普通の文章と緻密な文章の差異は何かということになるが、それは書き手の思い入れの深さの違いであるといえる。
  • 書き手はただ、普通の文章を書くことに努めればそれでよい。普通の文章を書こうと努めていくうちに、思い入れの深いことがらについては自然に緻密な文章になる。この、自然に、というところが、じつは大きな意味をもつ。
  • 普通に、つまり客観的に、書き進めるうちに、思い入れの強いことがらについては文章が自然に緻密になる。そのことによって、初めて主観が現れる。この濃淡により、言いたいことが読み手に伝わる。客観に徹することが、いつか主観を表出する。
  • 「文は人なり」という。普通とか当たり前とかいっても、何を普通で当たり前と思うかは個々人により差異があり、そこに文章の第一の個性が現れる。また、自然な緻密さの濃淡で現れる主観のあり方で、第二の個性が現れる。この二つが、文章の個性の両輪である。
  • 結論は、やはり、普通の文章の錬磨が大切だということである。

1997.08.07

文章における論理と形式

 いやしくも他人が読むに堪える文章を書こうとするならば、そこにはわきまえるべきいくつかの要件があることが、自ずと意識されるであろう。
・論理的であること
・過不足がないこと
・表現の情熱が伝わること
 等々である。
 いうまでもなく、まず「熱」なくして文章は成り立たない。文章は、いわばエネルギー放出の物理現象なのであるから、テーマの大小にかかわらず、そこには何らかの人間的情熱があるのでなければ始まらない。情熱のない小手先だけの文章は不毛そのものであり、読む側に時間と精力の損失を与えるだけである。
 かといって、「熱」があるだけではダメである。それを効率的に放出することが必要である。効率的というのは、できるだけロスなく読む側に伝えるということである。そこで論理と形式という問題が出てくる。
 いくら良い内容のテーマであり、アイデアであっても、筋道が通らない表現をすればそれだけロスを発生させてしまうということである。また、英人には英語という形式を通して言葉が伝わるように、言葉は発する側と受ける側に共通のルールを介在させることで伝わるものであるから、特別の理由のないかぎりはルールをわきまえた表現であることが望ましい。
 論理と形式とは別々の言葉のように見えるが、ロスなく、効果のある文章表現を行うということと関連させれば、両者は表裏一体のものである。論理性は正しい形式の一部であるし、形式をふまえることは論理的態度に他ならないからである。
「一に一を加えれば二となる」という文章は論理的なだけで特に形式はないというかもしれないが、論理的態度であることがすでに一つの形式(共通ルール)を成しているともいえる。「古池やかはず飛び込む水の音」には形式があっても格別の論理はないと見えるかもしれないが、五七五こそこの文章の論理(あるべき制約)なのだという言い方もできる。
論理的な文章を読むと、情熱をナマの情熱のままにおかず、きちんと筋道を立てて表現しようとする真摯な態度に感銘させられる。
 一方、形式もまた、情熱をナマの情熱のままにおかず、ある理知的制約と合体させて表現する装置になっている。
論理的な文章とは、理知的制約をみごとにクリヤーした文章であるといえる。
理知を超えることは、理知を備えることでもある。
 論理的文章とは、非論理的でない文章ということである。筋道の上で変な所がない文章である。だから、すなおに感動を表しただけの文章でも、十分に「論理的」な文章なのである。

「てにをは」を考える

 「他人に自分の文章を読んでもらうことは、感謝すべきことである」か、「他人が自分の文章を読んでくれることは、感謝すべきことである」か、どちらが正しい語法か。それはなぜか。そういうことをいつも考えていきたい。(この例では当然後者が正しい)
 文章技術の最大の基本は、表現が紛らわしくないことである。一読、意味がはっきりしていて誤解の余地がないことが求められるのである。
 話し言葉と書き言葉の違いは、書き言葉はてにをはが整理されているということである。また、「だ」と「である」を混在させることによって、書き手の心のたたずまいが自然に表出する効果が得られる。
 「てにをは」ぐらいはちゃんとできるとたいていの人が思っている。ところが「てにをは」がちゃんとできている文章は名文であって、それができるだけで商売になるほどなのだ。
 「良い文章」という言葉は、内容についていう場合と、形式についていう場合がある。形式に徹して研究してみることも大いに必要なことである。また、「てにをは」について考えていくと、あるべき「省略」の仕方についても考えることになる。
 文章で最も肝心なことは、意味が取れることである。「てにをは」はまずそのために正しく用いられなければならない。
 さらに、文章は波動源である。「心」を読み手に伝えるためには、伝わるような波動に変調する必要がある。そこにも「てにをは」の工夫が不可欠である。文章を褒めるのに「字が立っている」という言葉があるが、ここでも「てにをは」が大きな意味をもっているはずである。
 宗教の中には、矛盾したことを言って人心を惑わせるようなものがあるが、その言葉の「てにをは」を検討していけば、どこでごまかしが行われているかが分かる。「てにをは」はそれほどに重要なものである。
 昔の職人は、弟子に技術を教える場合にすぐゲンコツが出た。教えたいことがうまく言葉にならないので、ついゴツンといくのである。弟子にしてみれば、ゴツンでは何のことやら分からない。けれどもゴツンによって、自分がまちがっていること、その部分が重要であるらしいことなどは了解する。そして教え手の示す手本を注意深く見て、理解しようとすることになる。これは、弟子に「学びたい」という気持ちがあるから、このコミュニケーションが成立するわけである。
 ところが、頼まれたわけでもないのに随筆などを書いて、それを人に読んでもらおうとするときにはこれでは通用しない。「うまく言葉にならない」ということは、文章において致命的である。「うまく言葉にならないが読んでほしい」では、読む人に対して失礼であり、横着であり、またどこかにまやかしの要素をもつことにもなる。
 「横着な文章はダメ!」が私の言いたい最大の眼目である。
 薩摩男児にとっては、「命が惜しい」「理屈を言う」と言われることが二大屈辱なのだそうである。志をもったら、あとはつべこべ言わずにそのために命を捨てるのが正しい行動とされるのだ。文字どおり「人命軽視」であり「理不尽」であって無茶苦茶なようにも思えるが、何か強い一面の真理と爽快さもその考え方からうかがえる。
 だから、行動理念としてはそれでも良いのかもしれない。だが、文章を書く以上はそれでは困る。理屈の通らない文章を他人に読ませることは横着である。そしてその文章の結論に他人を従えさせようとするならそれは非道である。
 「てにをは」は正しくても、「ゆらぎ」は出るものである。ちょっと無理な言葉使いが、新鮮な感覚を正しく表現する場合がある。それは文章の重要な創造性の一つである。けれども、だからといって、勝手な想念を無秩序に文字化することが許されるわけではない。そんなことは自由な創造を却って妨げるものであって、決して自由な表現ではない。

個性的な文章

 よく「個性的な文章が良い文章だ」などというが、私は文章は個性的である必要はないと思う。だいたい、人間にとって、他人の行動が個性的であるかないかなどどうでもよいことで、つまり読者にとっては読む文章が個性的かどうかなどどうでもよいのであって、読んで面白いか面白くないか、ためになるかならないか、それだけが問題なのである。しかし、矛盾するようだが、個性的な文章が悪いというわけではない。むしろ良い文章というのは個性的なものである。個性的である必要がない、という意味は、必要だから個性的にするように努める、というのでは無意味だということだ。むしろ文章を書くときには、自分の個性や癖が出ないように書くのがよい。そうして、できるだけ正確に、できるだけ分かりやすくを心がけて書くのである。何を書くか。何を正確と思うか。何を分かりやすいと考えるか。そういうところに自ずから出ざるをえないのが個性というものである。自分の書きやすい文体、というものはあってよいが、それとてじつは自分がそれを最も分かりやすい文章と考えていることの反映であって、それが行きすぎて自分にしか分からない文章になったりするのは、文章は個性的でよいという通念に横着によりかかった結果にほかならない。

1998.01.29

正確な文章

 文章を書く際の唯一の指針は「正確さ」である。他のことをあれこれ考え悩む必要はない。正確に書くことのみに努めればよい。そう思う。
 ただ、正確さ、と一口に言っても、単純なことではない。つまり、厳密な意味での客観的な正確さ、というものはないのであって、人間が書く文章である限り、それは主観的な正確さ、ということだからである。
 新聞記事は5W1Hを書くのだという。主観の入り込む余地はなく、ほぼ純粋な客観的文章だという。もしそうだとすれば、新聞記事というものは非常な悪文であり、否定されるべきものだ。しかし実情はそうではなくて、それは主観的な正確さを表現するための客観的土台であり、新聞記事はその客観的土台だけを書き表すにとどめている、というだけのことである。結果的には客観的な文章であろうが、それは主観的正確さを以後に志向する表現であり、言い換えれば、ある目的のため、たとえば読者の自由な判断を可能とするために、自ら意図して5W1Hという客観的部分に限定した主観的表現なのである。
 文章とはそういうものである。いったい誰が、自分の言いたいことを言わないために文章を書くだろうか。たとえ伝達にとどまろうとも、目的は表現なのだ。
 どういうレベルにおいて、というその文章の社会的役割にもとづくレベル設定はあろうとも、文章は主観を正確に現そうとするものである。それが時に、材料は客観的事実のみ、というような限定を設けられるだけの話である。客観的事実のみを用いて主観を表現しようとするのが5W1Hだ、というのが最も正確な言い方だろう。
 人が人にニュースを伝えることの意味は、商業的意味を除けば、きわめて人間的なものである。ある時はそれは驚きの共有への欲求であろうし、ある時は警告であろうし、ある時はコミュニケーション確立のための話題の提供であったりもするだろう。
 そうした人間的意味がもともとの本質であるかぎり、主観的な正確さを表現できなければ文章は目的を達しない。具体的で現実的な表現ばかりでなく、時には抽象的だったり、寓話的だったりすることのほうが「正確」な場合もある。無論人はどんな伝え方をしようと自由なのだが、少なくとも発信者にとっての最も正確な表現は一つしかない。レベルが設定されるとすれば、そのレベルにおいての最高の表現は一つしかない。そういうことを考えていかなければならないのだ。5W1Hのみしか許されないとしても、その中で最も主観に正確な表現をめざす。いや、めざすまでもなく、そのことが先にあって、その後に限定が加えられているだけのことなのである。
 まして、無限定のレベルにおいて表現が許されるとするならば、「正確さ」とは無数の選択肢からの冷静で、注意深く、集中力や根気や、時には飛躍の勇気も含めた選択を意味する。「正確」な文章を書こうとすることは、じつは入口は一つだが、決して出口の見えない迷宮へ入っていくことなのである。

03.22

文学とは

 文学とは何だろうか。それは「追憶」であり、「哀惜」である。そんな気がする。

1998.09.30

感性か知性か

 ある文章の中でのある語法を自然に感じたり不自然に感じたりするのは、人間の感性によるのか知性によるのか。
 ある理に反していると思えばこそ不自然に感じるのであり、理にかなっていると思えばこそ自然に感じるのであるあるから、そこに根本的にあるのは知性である。知性の働きが<自然な感じ>とか<しっくりくる感じ>などの感性の発動に結果するとき、その感性の発動はたとえば芸術的感動とどのように本質的に異なるのであろうか。
 感動とは感性のみの働きととらえてよいのだろうか。それとも、芸術的感動の中には、じつは知的な営為が含まれているのだろうか。
 そもそも、知性と感性は、二元的に存在しているものか、同根のものなのか。
 じつは、人の心の動きというものは、99%までが知性の発動なのである。残る1パーセントとは、刺激に対する反射的感覚にすぎない。感性なるものは、決してある精神状況を感覚として説明するのでなく、感覚に触発されて出現する知性の総称と考えてよいのである。

1999.02.11

浮かぶもの

 久保田万太郎は句作の秘訣について尋ねられると、常にこう答えていた。
「句は浮かぶものです」
 これは絶妙の言葉だ。スランプか才能の枯渇かしらないが、小説が書けなくなった小説家、俳句が作れなくなった俳人などというものがいるらしい。そうしてそういうことに悩むのらしい。それはどういうことか。なぜ、小説が書けたり俳句が作れたりすることが良くて、それができなくなると困るのか。
 原稿料収入がなくなって生活に困るから、ということもあろうが、悩むのは、根本的には自己表現ができなくなる、そのことが困るのだろう。
 しかしながら、自己表現とはいうけれども、彼らが小説が書けたり俳句が作れたりしていたころは、自己表現がそこまで最前面に押し出されて書いたり作ったりしていたのではあるまい。何か感じ入ること、心動くことが先にあって、それを表現することで副次的に自己表現になっていたということだろう。ある事象と自己の感情が不可分のハーモニーとなったものが作品だったろう。
 作品を作ることだけが過剰に意識されるとすれば、対象となる事象の独立性や偶然性を意に介さずして自己表現を達成させようというのであり、自己は架空のものになっていくばかりである。
 物事に感じる感受性が先にあってこそ、表現ができるのだ。自明のことであるが、忘れられやすいことでもある。
 「作品を作る」といっても、じつはそれは作り手のつごうでつごうの良いときに作れるというようなことではない。まさしく「浮かぶ」ということこそ表現の本質なのだ。
 感じる心を養う、感性を蓄積していく、そういうことこそ、表現しようとする人の日々の務めといってよいだろう。

1999.02.11

言葉は何の道具か——文章の上手下手ということ

 言葉はウソを書くための道具かホントを書くための道具か、と言えば、当然、真実を伝えるのがその使命であることは言を俟たないところであるが、実情はどうかといえばその逆の場合が極めて多いのである。
 そもそも言葉で何事かを言い表すということは、常に不十分であったり過剰であったり、あるいは主観によって大なり小なり歪曲があったりするものである。いかにホントを書こうとしても必ずそうなるといってよい。言葉というものの、そのような逃れがたい不完全さが、人間に、言葉がウソを言うための有力な道具であることを悟らしめた。いや、さらに言えば、人間は言葉をもったことにより初めてウソをつくことをおぼえたとすらいえるのである。
 そういうことから、言葉はウソをつくための道具と割り切るのが人間社会の常識にもなったりするのであるが、ウソが成立するには、それがホントだと相手に思われることが必要なのであって、そこには言葉はホントを伝える道具だとする常識が先になければならないのもまた事実である。
 すなわち、言葉はホントを伝えるための道具だという常識があればこそ、ウソを伝える道具になるのであって、どちらが優先すべきものであるかはおのずと明らかである。言葉はホントを伝える道具であるというのは、アタリマエのことなのである。
 しかし、このアタリマエさは、時代とともに薄れてきているのが実情であって、昔は「正直さ」ということが単に美徳である以上の、いわば「人間の条件」であったし、広告というものも今以上にみんな本気でうけとめていたのである。そういう心性が今は「素朴」といわれたりするのであるが、素朴でも何でもない、それがアタリマエなのである。
 しかしながら、問題は、それがアタリマエの時代であればあるほど、言葉はウソの効果的な道具となるのである。アタリマエでない今のような時代には、言葉によるウソがじつはウソにもなりにくいのであって、だからいかにもホントらしいウソをつく必要が生じたりする。それも、大上段に構えてやればやるほど人は信用しないから、さりげなくスキを突くような言葉が探求される。
 そのような探求は、いわば動機が不純とはいえ、一種の「ホントの探求」でもあるのであって、言葉への信頼の表れでもあるのだから話がややこしい。一人の人間の中で、一方には言葉を信頼しようとする傾向があり、一方には信頼を踏みにじろうとしている事実がある。
言い替えれば、人間を信用したいと願いながら、自分は人をだまそうとしているのである。身勝手きわまるダブルスタンダードではあるが、現実はそのようなものである。
 そして、ウソの言葉が蔓延すればするほど、人はホントの言葉を求めるのであり、じっさいのところ、これが人間社会を破滅から守る最後のカギとなってくる。もともとは、ホントがあるから続いてウソが成立しえたのだが、今は、ウソがアタリマエになってしまったので、ホントというものが成立しうる状況なのである。ウソは良くないに決まっているが、ウソだらけの世の中だからこそホントに対する感動を人々はもつ。じつに、人間の喜びというものは、封じられた「アタリマエ」を獲得するところにあるのだなと痛感する次第である。

2000.01.18

プラスαの思想

 人間には頭の良い者、そうでない者、力のある者、そうでない者、真面目な者、怠け者といろいろいるのだが、そういう属性を超えたプラスαともいうべき何かが誰にもあって、そこにおいては人間は何の優劣もないと考える。このプラスαは、敢えて説明すれば、人が人ゆえに心に宿す、秘められた、あるいは無意識の詩情ともいうべきものであって、それは詩人によって時に言語化されもするが、広範かつ深遠かつ微妙であるとともに内容が環境に応じて変化する面もあり、決して既成の言葉でカバーできるものではない。
 文明が進歩すればするほど、常に言葉が先回りし、あらゆるものが即座に言葉で説明され分類され処理されていくのであるが、どっこい、人間を含めたこの世界は、そんなザルですくえるものではない。常に言葉が古く、心が新しいのが状況の本質である。言葉が先にあって状況を説明するのではない。言葉にならない状況が常に先にあって、言葉はこけつまろびつ、よろよろとそのあとを追って不完全な説明を試みているにすぎないのである。

2000.03.07

命がけ

 文章を書くにも、良い文章を命がけで書くということがあるはずだ。戦前の雄弁家といわれた人々の演説の要諦としているものは例外なく「熱誠」ということだった。確かに昭和30年代まではそういうことが一般にいわれていたことを憶えている。それは弁舌において命がけということだろう。
 いまやその手の「熱誠」は流行らないし、むしろうとましがられるのだが、そのような興奮で人をつるというようなものでなく、真実味をもって人を動かす文章を命がけで追求する、ということはあってよい。その最も実行しやすい要諦をいうならば、それは「正確」ということだろう。
 文章で、常に正確な叙述を試みることは、ちょっと考えるほど簡単なことではない。ウソを言うほうがよほど容易である。

2000.03.18

文章

 文章にはよろこびとかなしみがなくてはならない。
 結局はそういうことである。

2000.05.04

丸い文章

 四角四面な文章というものがあるのだから、丸い文章があってもかまうまい。文字も、四角張った書き方と丸っこい書き方があって、やはり丸っこい方が好感がもてる。文章もおそらく、四角い文章よりは丸い文章が一段上だという気がする。丸い文章を書くように心がけていきたい。

2000.07.21

いつわりのないところ

 良い文章を書こうと思えば、いつわりのないところ、本当に正直なことを書こうと努めていかねばならない。そして、そのためにこそレトリックというものもあるのである。

2000.08.12

省く名文、ふくらませる名文

  1. 良い文を書く秘訣の一つに「省く」ということがある。文章の中から無駄なものは徹底して省く。無駄でないものですら、省いて文章が成り立つかぎりは削る。ぜい肉をそぎ落とし、こけた頬のような厳しい印象を出すのである。すると一種の知的な美しさが出る。また、一語一語の重要さが増して、緊迫感も出る。肉を切らせて骨を断つリアリズムの感動もある。これに徹すると、けっこう人をうならせる名文となる。
  2. これに対して、一見言わずもがなのことまで言いながら進んでいく体の名文もある。冗長で、饒舌で、ある時は鈍重でさえある。しかしながら、どこか「人間的な」味わいをもつのがこの種の文である。和みがあり、柔らかみがあり、また時には滋味がある。文章自身の中核となる内容よりも、ふくらませた部分が命なのである。人をうならせるよりも親しみを覚えさせる名文である。

 上記2種の文体を比較して、むろんどちらが良いどちらが悪いということではないのだが、一つの結論を言おうとすると、
・省く文の方は比較的単純なメソッドであり、割に「一つ覚え」的な心がけで人を感心させる文章も書ける重宝なものである。
・ふくらませる文の方は、非常に多くの種類の工夫とエネルギーを要するので、中途半端では結局失敗に終わりやすい。しかし表現の幅は広く、個性や才能が発揮できる方法である。
 というようなことになろうか。

1,2 のどちらかに徹するのもよい。文章の流れに従って使い分けるのもよい。要は、これら2種の名文があることを知っておくことであり、どちらにしても中途半端だけは避けるべきだということである。

2000.11.17

2W1Hの法則

 作文では、「何を」「いかに」書くかということに問題は集約されるのである。このことは大事なことであるから、この2面から文章を考える姿勢を保たなければならぬ。
 しかしながら、この2つの、目に見える形に表現されるものに対して、さらにもう一つの重要な要素がある。それは「なぜ」書くかということである。
 一つの作文を「なぜ」書くかということは、言葉では説明しきれぬものを含むのであり、きわめて微妙かつ深遠な事情であり得る。説明はしづらいが、非常に重要な要素であり、それが伝わる文章でなくてはならぬのである。それは文字化されているものとは別の、行間の精神である。人間性であり情熱であり哲学であり詩であり思想である。そういう「なぜ」のない文章はダメである。

 「何を」「いかに」「なぜ」——これを私は文章における「2W1Hの法則」と名付けたい。

2000.11.19

「鹿威し」を見て思うこと

 料亭の庭などに「鹿威し(ししおどし)」というものがある。傾いた竹の筒に少しずつ水がたまり、ある量を超えると筒が逆に傾いて石に当たってカーンという音を出し、同時にたまった水を排出して元の傾きに戻る。それをくり返す風雅な装置である。
 文章とはその「カーン」であると思う。無理に書こうと思っても書けはしない。しかし気長に待っていれば書くべき何かがたまって自然に「カーン」と書けるのだ。肝心なのはその「カーン」を逃さないこと。そのためには、静かに、油断なく、自分の心を見張っていなければならない。そんな習慣をつけたいと思う。

2006.06.22