自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

014. 随筆

 人間は言葉をもっている。言葉によって人間は思考する。けれども人間は思考ばかりをするのではなくて、もちろんそれ以前の精神活動である感情ももっている。
 イヌやネコも感情をもっていることから察すれば、人間においてはまず感情があり、しかる後に思考がより高度な精神活動としてあるものと思われる。だが、実際のわれわれの心の動きをよく分析してみると、感情活動と思考活動は切り離せるものではない。
 ある事象に対して強い感情をもつと、人はそれに誘われるようにしていろいろなことを考える。たとえば、ネコが寝ているのを見てかわいいと思う感情をもつと、このネコは日ごろどのようなことを考えて生きているのだろうとか、幸福なのだろうかとか、長生きするだろうかとか、考える。そのような「思考」は、ネコへの愛情という「感情」と表裏一体となったものである。
 ところで、文字表現というものは、感情を文字で表すのだといわれるけれども、事実は思考の表現なのである。文字になった以上はそれは言葉であり、言葉である以上は純粋な感情そのものではありえない。「かわいいと思う感情」という言葉が端的に示すように、ある感情があることを思わせるのであって、何を思ったかで何を感じたかを推測させるようなやり方でしか、「感情の文字表現」は不可能なのである。「カッとなった」とか、「胸がドキドキした」とか、「思わず涙がこぼれた」とか、感情にともなって発生した事実しか言い表せないのである。あとは読む人がそれを推測してくれるのを待つことになる。このことから、文字表現というものは、いやおそらく表現というものはすべからく、いかにそれが攻撃的であったり表現主義的であったりしようとも、例外なく「待ち」の行為であるといえるのである。
 いくら力んでみても、人がその気になってくれなければどうにもならない。人がその気になってくれるような文章が良い文章なのだが、意外にこのことは考えられていない。

 人がその気になる、人が感動する文章には、いくつかの要素が考えられるが、基本は「感情」と「思考」である。そして、随筆などの場合、まずは感情である。
 感情は本来、言葉にならないものである。感情と言葉とは無関係であるといっていい。けれども感情は表現の原動力であり、表現の理由である。言語行為に限らず、表現は真剣な社会的行為なのであるから、人を動かす文章を書こうと思えば、その感情がまぎれもない事実でなければならない。良い文章の強みというのは「事実の強み」なのである。浅い感情や、軽い感情であったとしてもかまわない。まちがいなくある感情をもったということがなければ文章は成立しない。
 では感情とは何か。喜怒哀楽というけれども、随筆の文章になる感情というものは、それなりの含蓄のある高級なものでなければならないのではないか、などと考えだすと何も書けないものである。むしろ、平凡なこと、些細な感情をつづったほうが良い文章になることが多い。その理由は、平凡で些細な感情は読者の多くが体験しており、共感もされやすいからだ。かんじんなことは、平凡で些細な感情を、まじめに、また事実ありのままに取り組むことである。言い古されたことだが、感情を大切にする姿勢がなければ、随筆など書けるわけもない。
 しかし、感情を大切にすることは、決して容易なことではない。たとえば、「駅の階段でぶつかってきた若者が、何の詫びの言葉も言わずに行ってしまったので腹が立った」という文章にしても、仕事に追われていればそのようなことは忘れてしまいがちである。そういうことをちゃんとおぼえておく姿勢が、感情を大切にする第一歩である。随筆を書こうとするなら、そういう心の出来事や、あるいはふと浮かんだ思いつき、考え方、ものの見方などのようなものをメモしておくぐらいの努力は必要である。ふと浮かぶ、というようなことがなくなってしまっては、もう文章は書けないのだ。人生は発見の連続であると思い定め、日々の発見にこだわっていくことが、人を動かす文章を書く要諦ではないかと思う。