自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

075. 幼稚なる五十男

 われわれの生命なるものはいわばひとつの反射の体系であって、その実質は肉であり骨であり、すなわち純然たる無機的な物質なのである。いわゆる個性なるものは、反射の微妙なありようの相違にすぎず、それをもってその人間の本質のごとく言うことは、いかにも人間が陥りやすい誤謬である。人間同士というものは、その共通性の方が圧倒的に大であって、相違性はじつに微小なものと考えている方が間違いはない。
 人が死ぬと、その遺体は魂の抜け殻であってその人の本質は消滅したかのごとくいわれることが多いのだが、それは錯覚である。遺体となったら、その遺体こそ本人である。それ以外にありはしない。骨になったら、その骨こそまちがいなくその人そのものである。昔、「骨まで愛して」という流行歌があったが、人を愛するとはまぎれもなくそういうことである。われわれはその人の個性をこそ愛しているかのように考えてしまいがちだが、じつのところは「物体」として対象を愛惜しているというのが真実というものだ。もし、対象の「個性」をこそ愛するのだとしたら、同様のあるいは類似の個性をもつ者をもそれゆえにこそ愛さねばならなくなるはずだが、「愛」は決してそのようには発動しない。愛の対象は常に唯一無二である。いわゆる「かけがえのない」ものである。すなわち、その個性は重要な表徴であるとしても、われわれが愛するのは「物体」としての対象なのである。
 ある対象が、ある人にとってかけがえのないものであるならば、その遺骨もかけがえのないものであり、生前の肉体同様の価値と意味をそこにあふれさせているのである。遺骨を、われわれは生前のその人の表徴ととらえてしまいがちになるが、逆である。われわれが「その人」と思っていたもの——個性の方が、じつはうつろいやすい表徴だったのである。

1999.05.09