109. 宗教および宗教的観念との訣別|牧歌舎随々録|エッセイ倶楽部|自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

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牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

109. 宗教および宗教的観念との訣別

 宗教の意義はいまさら語るまでもない。弱者に信念を与え、悲しむものに希望を与え、虐げられる者に勇気を与えてきたのである。
 しかし、宗教の構造というものは、必ず神が教え導き、神が思いやり、神が判断をくだすというものであって、最終的主体は人間にはない。いわば宗教者は、いつまでもお父さんが世界でいちばんエライと信じている、あるいは信じたがっている、子どものようなものである。
 肝心なことは、自らの力で歩き、自ら他者を思いやり、自らの責任において判断するということでなければなるまい。
 必要なのは神の愛でなく「人間の愛」なのである。
しかし宗教との訣別というのは非常に困難なことである。宗教との訣別は宗教的観念との訣別ということになるが、これはつまるところ親子の情という特殊な関係のありかたとか、郷土愛だとか、愛国心だとかも最終的には否定することになりそうである。ある意味で、人はそういうものによって生きてもいるのだから、これを完全に否定するとなると人生そのものを否定することになるという人は多いだろう。
 マルクスは宗教は阿片であると言ったというが、そのような消極面だけが本質とは思わない。むしろそうした消極的態度、諦観のようなものが宗教の唯一の本質であるならあまり問題はない。問題なのは、宗教のもつもう一つの本質である「排他性」である。これは、宗教それ自体が排他的論理をもっていなくとも、信仰者がそれを自らの内に形成するということによって、排他的様相を表し、強めてくるのである。
 親が自分の子を愛するのはかまわない。しかし自分の子だけを愛し他を愛さないとしたらどうであろうか。一般には自分の子を特別に愛し、他人の子は自分の子より相当にかつ決定的に低く愛するのが当然と思われているが、こういうありかたはどこか人類否定的ではあるまいか。
 可能かどうかを別にして考えれば、「わが子を特別に愛する」よりも「わが子も他人の子もまったく同じに愛する」ことの方が人類平和の実現性を高めるものである。よく、「自分がわが子を特別に愛するように、他人もそのわが子を特別に愛する。それを認め合うのが平和への道だ」というようなことをいう。それは本当だろうか。それはウソではあるまいか。 排他する。自分たちだけで固まる。そうしたことは、グループ内の弱者にも心強いことであるだろう。しかしその反面、内部には必ずヒエラルキーが形成される。人は皆そのヒエラルキーのどこかで生きることになる。最下層は、このグループに属していることだけでおこぼれをもらえる人々である。いや、実は最下層だけでなく、大部分の人がそうであって、おこぼれの量が多いか少ないかということだけのことであるが、多くのおこぼれをもらう、あるいは奪う連中は、この「固まる」ということを是としてそれに努める。高級官僚とか、資本家および資本家べったりの人々が保守的であるのはすべて彼らがそうした「構造的利権」の受益者だからである。

1999.10.19