120. 無意味なあるいは意味不明の|牧歌舎随々録|エッセイ倶楽部|自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

120. 無意味なあるいは意味不明の

 人間というものは、少なくとも客観的には無意味な(あるいは意味不明の)愛着を、人や物に対してもつものである。それは時として不合理(あるいは非合理的)ですらある。たとえば愛用の万年筆というようなものがあって、同じメーカーの同じ型の万年筆であっても、他のものではいけない、自分の使っているまさにその万年筆が特別の意味、特別の価値をもつというわけである。
 こういうような傾向は、コンピューターには決してありはしない。自分で書く文字というのは、同じ字でもそれを書いたときの思考の状況や、外部環境や、いろいろのものを反映してそれぞれに意味があり、それゆえに少なくともなにがしかの愛着をもたれる理由があるが、ワープロになればそういう隠れた主観的意味はきれいさっぱり捨象して、文字は文章が読まれるための純然たる無機的な記号以外のなにものでもなくなるのである。
 こうしたことを、文明の進歩であるとみるか退歩であるとみるかということが、個人の人生にとっても、人間社会にとっても、大きな問題なのである。それは観念論と唯物論の問題にも、民族主義の問題にも、自由を考える上でも、キーポイントである。一本の万年筆に愛着をもつことは自由なことなのか不自由なことなのか、ここはひとつよく考えてみなければならない。

1999.12.31