146. 題材主義のすすめ|牧歌舎随々録|エッセイ倶楽部|自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

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エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

146. 題材主義のすすめ

 われわれは文章々々と思いすぎである。むろん世の中には上手な文章と下手な文章があって、上手であるに越したことはないのであるが、それ以上に「良い」文章であるかないかを考えるべきである。ともすればわれわれは「良い文章」を読んで「上手な文章だ」と思ってしまうのであるが、じつは「良い」ことと「上手な」こととは本質的に異なる。「良い」というのは文章そのものでなく、書かれた事柄、つまり書かれた対象への評価である。相当に下手に書いても感動的な話は感動的で、人は「良い文章を読んだ」と思うのである。では上手な文章とは何かといえば、それは対象の「良さ」を余すところなく、また損なうことなく記述した文章であるといえる。
 ところで、「良い」対象には、だれがどう書いても「良い文章」になるほど歴然とした「良い」ものもあれば、書き方で「良い」ものになったり「良くない」ものになったりする微妙な種類の「良い」ものもある。そしてたいていの「良い」対象は後者に属するのである。さらにいえば、「何気ない」対象の中にも「良い」面や点を発見し、それを言い表したものをわれわれは「良い」文章だと思うことが多いのである。
 そうなってくると、「良い」文章を書く能力というものは、じつは「発見力」であると言いうることになる。世界にはあまり誰も知らないこんなことがあるのを発見した、というようなのが「良い」文章なのである。また、人の心(自分の心)はこんな思いがけない動き方をするのを知った、というようなのが「良い」文章なのである。なにもまるまる新しいものを発見する必要はない。古いもの、ありきたりのものの中にちょっとしたあまり気づかれていないものを見いだしてもよいし、あるいは見方そのものの新しい形を発見したために、対象に新たな面が現れたということでもよいだろう。
 文章というものは、結局、経験を通して自己の内外に発見したことのレポートであるといってよい。レポートされる対象の質の良さが問われるのである。「文章力」というようなヌエ的な言葉に惑わされてはならない。

2001.05.10