今年の3月に当社から『百四歳・命のしずく』を出版された田中志津さんの寄稿が、「104歳の作家 佐渡金山回顧」のタイトルで日本経済新聞(9月2日朝刊)の文化欄に掲載されました。
内容は、田中さんが昨年出版された『佐渡金山』(KADOKAWA)にちなむもので、昭和7年(1932年)春、県庁職員だったお父さんの転勤で佐渡に住むことになり、やがて女学校卒業後、初の女性事務員として入社した旧佐渡鉱山の思い出をまとめられたものです。
「巨大な山を切り開いた懐に立ったとき、重くのしかかるような感慨が体をよぎった。朽ちた廃屋やひっそりと立つ作業員の霊を祭った墓石を前に、金山の歴史の底辺に生きた人々の悲衷を見るような思いだった」と語る田中さんは、江戸時代からの佐渡の歴史に触れた後、職場での体験記を綴っています。
「私が人社した1933年は、日中戦争が勃発していたが切実さはなく、やがてその影が金山どころか日本を疱っとは考えもしなかった。
配属先は現揚事務だった。仕上、鍛冶など約100人の工員の日ごとの工程表を作るのが主な仕事だ。時折、設備に問願が起き、送電が止まると集中攻撃を受けた。職員は発電所に飛び、私は採鉱から怒声を浴びた。故障の原因が自分にあるようで割に合わない気がしたものだ。それでも工員たちの生き生きした息吹に触れ、インテリ技師との交流もあった。青春期をここで過ごしたことは大きな財産になった。
35年前後から40年ごろの佐渡金山は活気に満ちていた。しかし、その頃、採鉱課長が「金の生産が落ち込んだ」と話すのも耳にした。日本最大と言われるこの金山もいつか没落するのだと、不吉な予感が胸をよぎった。
戦争は次第に金山に影響を及ぼすようになる。灯火管制がしかれ、国防婦人会や女子青年団が結成され私も加わった。職場でも応召されていく若者が増えた。「戦死した」と後に聞かされた少年たちの顔が今も浮かぶ。今思えばあの時期は金山が降盛から没落へと向かう最後の輝きだったように思う。私が辞めた後、47年には大縮小が行われ、89年に閉山を迎えた」
現在、ユネスコの世界文化遺産候補となっている佐渡金山跡には田中さんの文学碑が建てられており、次のような言葉が刻まれている。
「金山に勤めた人々のあの活気に満ちた青春の情念が、そして金山を愛した町の人々の熱い想いが、かつての華やかな佐渡金山の鉱脈の層にその名残りをとどめ、息づいて欲しいと切に願うのである」
なお、これに先立つ6月21日付いわき民報夕刊にも田中さんの「いわきに想いを寄せて」と題する随想が掲載され、いわき市へのあふれる思いを託した下記の二首の歌が披露されました。
磐城の地幾年生きるこの命
山河眺めて荒海に立つ
豊かさや塞暖流海の幸
この地に暮らし至福の時