年相応の問題ができない。教科書を見ても意味が分からない。説明を聞いても分からないまま。そうして周りから冷ややかに見られ、ときには怒られ…。こんなつらい思いを、もししたとしたら。学校へ行く気も失せてしまいますよね。しかし、一定数いるのです。努力しても、がんばろうとしても、できないつらさを抱えた子どもたちが。 学習でつまずく子どもの気もちを理解し、察して対応策を考えて実行していくことがもっともっと浸透するといいな。本書は、そのような願いから「興味をそそる・短めの課題」を意識した手作りの教材です。一人でも多くの子の自己肯定感・自己有能感の向上に繋げられれば幸いです。(後書きより)
どんなことでも乗り越えて行ける。貧しかった幼少期。酒を飲んでは喧嘩を繰り返す父。実母との別れと継母との出会い。絶えない夫婦喧嘩―替えの下着一枚にすら難儀する生活のなか、それでも思い返せば辛いことばかりではなかった。結婚・出産から姉の死までを描く第I部「現在と生い立ち」と、平成元年の出来事を詳細にまとめた第II部「日記抜粋」を収録。
…信条というか、拘りを持ってきたのは、口幅ったい言い方をお許しいただければ、どうやら、誠実さ、公平感、社会正義ということなのかもしれない。人が興味を抱くところ、関心を持つ点というのは、年代に関係なく意外と変わらないものだと改めて感じる。いずれにしろ、人の思想や生きざまに読書が深く関わっていることは間違いない。一介のサラリーマンの拙い読書遍歴に過ぎないことは確かであるが、「読書と人生」の一つのケースヒストリーとしてとらえることにより、人生の方向性を決定づける要素としての読書の効用に関して認識を新たにする一つのきっかけになればと思い、冊子として取りまとめることにした次第である。(まえがきより)
本書はシャルル・ボードレールの『Le Spleen de Paris ― Petits Poemes en prose』の全訳である。 19世紀最高の詩人シャルル・ボードレールは、今からちょうど二〇〇年前の一八二一年生まれ、没年は一八六七年(46歳)。ボードレールの詩作品といえば『悪の華』が有名であるが、それと並び立つのが散文詩『パリの憂鬱』である。50篇で成るこの散文詩集でボードレールが描いた人々は、奇妙な、しかし実に身近な感じをも抱かせる人々である。詩人はしばしば彼ら「弱い者、何もかも失った者、悲しみを持つ者、奇妙な者、謎の人、理解しがたい者、エニグマ」などを凝視し、同情を隠さない。また『人間のもつあらゆる形態の過大なうぬぼれ』に警鐘を発し、今日の言葉で言えば『格差』を問う。静かにかつ激しく、声高ではないその言葉たちは現代の我々の心を打つ。それら詩人が語る息遣いや表現も含めて、訳者は精細な熟読の上に立ち日本語で語る。さらに、隠しようもない詩人の心の揺らぎ示す言葉、散文でありつつ散文「詩」であること―その成り立ちを訳者は調べる。
荒廃した敗戦後からめざましい高度成長期に向かっていた時代に、大都会に出た著者はなぜか退行して行って、先のみえない独りぼっちの旅空にいた。 生きていれば、人それぞれに死の影が頭をもたげるときがあり、その装いは概して時代によって異なるが、いつの時代にも自己に真摯さを強いることに変わりはない。真摯であればあるだけ死の影に自己の神髄がふるえて、純粋に自分自身と感応する。 これは死の影が未知の自分自身へと導いてくれる詩集である。
ピースボートの体験を通して日本の東南アジアにおける戦後処理のあり方やベトナム戦争におけるアメリカの非人道的行為などの問題や広島・長崎に代表される核兵器廃絶問題、従軍慰安婦・徴用工問題に代表される日韓関係などにおける日本政府の責任を法的立場から検証し鋭く追及した意欲作。
「カジュアル哲学」とは、哲学をもっと身近な言葉で語り、日常生活に役立つものにできないかを探究してきた著者が提唱したものである。この命題の追及に情熱と信念を傾ける著者は、毎年著書を発行。本著で15冊目となる。日常の家庭生活から人間の深奥、社会問題から文化芸術、きしむ日本の政治から混迷する世界情勢まで、多岐にわたるテーマを独特の視点から分析し提示する。
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