自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

ホビー・ライティングの広場

思索

理性の時、感情の時、ホンネの時

 「生きるべきか死すべきか」というハムレットの台詞を、長い間、その意味を知らずにいた。ある人生上の難題を前に、「がんばって生きようか、もう死んでしまおうか」と迷っているのだろうぐらいに思っていた。
 じっさいはそうではない。「がんばって生きようか」の方は一応当たっているともいえるが、「もう死んでしまおうか」は誤りで、「戦って死のうか」が真意である。すなわち、「戦わずに耐えて生きるか、戦って死ぬか」というのであって、それゆえに逍遥の「ながろうべきか死すべきか」の訳も可能になる。
 名台詞というのは普遍的なテーマに関わるものが多い。私はこのハムレットの台詞がなぜ名台詞とされるか知らずにきたのだが、本当の意味を知ってうなずかされるものがある。
 世の中は常に理想的ならざるものであり、それどころかきわめて不条理な構造や現象に満ち満ちているとすらいえる。そうした歪みの中に投ぜられたとき、人はその歪みに耐えながら生きぬくか、身の破滅を顧みず歪みと戦うか、選択を迫られる。
 こういうことは人生には多いだろうと思うのだが、じつはそうでもないようで、不条理や歪みに悩むことも今日では流行らず、そもそも歪みを感じることさえなく、ただ打算にまっしぐらに突き進むのが「ホンネの生き方」とされる世の中になった。無論、「タテマエ」より「ホンネ」を重視するのが「正直な」生き方とされているのであるから、この「ホンネの生き方」も推奨あるいは是認されているわけなのである。

切ないこと

 その本質は武力・暴力による支配でありながら、被支配者が支配者を崇拝したり思慕したりしている社会というものが、過去の歴史上も、現時点においても、決して珍しくないのである。馬鹿らしいことだが、人間にはそういう傾向が明らかにあるのであって、集団というものがボスあるいは指導者を求める法則と、これは半分くらいは重なっているようである。こうした権力崇拝の心理を考えると、一種の宗教的感覚とも解されるが、それ以上に、親を思慕する子の感覚のようであって、実に切ないことではある。
 昔飼っていた室内犬が、さほど自分になついているとも思わなかったのが、ある時なにかの時に私がその犬のことではないほかのことで癇癪を起こして箸箱を床に投げつけて壊したりしたときに、恐れてぶるぶると震えていたので、申し訳ないことをしたと思って謝りながら撫でてやった。その時から、異常と思えるほどなつくようになり、家の中で私の行く先々に走ってきては、私の膝に飛び乗って丸くなるようになった。そんなことを考えると、これはやはり実に切ないことなのである。

温かいもの

 頑迷な民族主義がなぜに根強く存在しつづけているのか。そういうものを主張しつづける彼らの論争の言葉にとらわれず、彼らの心情をこちらの心情との共通点をさぐる方法で推し量ってみると、そこには同族同士という関係の中に特別な温かみ、「血の通った」者同士であることの安心のようなものが見て取れるのである。
 さまざまな人間関係の中で、肉親同士というのはたしかに特別な関係である。そこには一応、これ以上細分されない「家族」という最小限の単位的な社会があると想定されるがゆえに、構成員同士の間には利害関係がない。つまり彼らの運命共有性、自分たちはグループとして利害関係の最小限の主体であるという意識が、互いの対立でなく結束の運命を確信させるのであろうと思う。
 彼らはしばしば「外国人よりも同国人、さらには同郷人、親戚、家族と、『近しい』者にほど親近感を抱くのが人間の自然な情である」ということを言う。これは利害関係の共通性の順に結束性が高いという風に翻訳できるのであって、きわめて科学的な意見でもあるのである。科学的でないのは、その結束の強さは利害関係が共通するからというような一般性のある理論のみによるのでなく、それ以上の「特別で確かな何か」こそ本質的な結束の原理なのだと言いたがり、思いたがることである。いわば人間の本能であるというようなことを言いたいのだろうが、それこそ利害の共通という原理に添ったものであることは認めようとしない。
 親が子を思う心は利害など超越したものだと彼らは言いたいのであり、だからこそ本能的なものということなのだろうが、本能というものは必ず自己に利益をもたらし害を除く方向に出来上がっているものである。種の保存ということを「利益」という言葉で説明するのは不自然なようでもあるが、それはあまりにあたりまえすぎて不自然なだけである。それは生物というものが偶然に備えた基本条件??種は保存されうるという可能性??を現実化していくためにあらかじめ「設定」された「傾向」であり、生物としての絶対必要な利益??種としての生存??追求の営みである。
 個体としての人間も生存のためにさまざまな本能を具有しているのであるが、それは結局は種の生存を最終目的とした中間的目的を果たすための本能と解される。
 親子関係がもし特別なものであるとしたら、それは単に個の利害が共通する集団でなく、種としての絶対条件??種の生存??を実現する作業単位であることということになる。