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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

27.家族間コミュニケーション-主役でなく脇役たれ-

 この世に生を受け、親に育てられ、やがて成人して結婚し子供をもうけ、さらに、その子が結婚し孫ができる。時の流れとともに家族が増え、それとともに、親、夫婦、子供、孫、それぞれの間の関係が出てくる。願わくは、それらの関係が、円満であることが望ましいが、何かのきっかけで仲たがいしたり、著しい場合は疎遠になったりすることも珍しくない。親しき中にも礼儀ありというが、うっかり礼を失したために、何10年もかかって培われた付き合いがご破算になったり、振出しに戻ってしまったりすることは往々にしてあるものである。血がつながっているとはいえ、家族の関係は意外ともろく壊れやすいものである。そうならないためには、成り行き任せで放っておけばよいというわけではなく、やはり、意識的な言動や振る舞いが大事になってくるように思う。

 家族関係を良好に保つ基本は、日常生活における会話にあるように思う。感謝をするときの「ありがとう」は言うまでもないが、朝起きたときの「おはよう」から始まり、食事のときは「いただきます」と「ごちそうさま」、どこかに出かけるときは「行ってきます」と「ただいま」「お帰りなさい」、寝るときは「おやすみなさい」など声を掛けあうことを習慣づけるのが家族間コミュニケーションのABCである。ただし、そのような基本的な挨拶だけでは、長期間にわたり良好な関係を維持するのには不十分な気がする。やはり、家族間の交流を図る場の提供ということで、折に触れたイベントや広い意味の冠婚葬祭が大事になってくるように思う。独身の頃は、冠婚葬祭を余り重要視していなかったが、結婚してから、女房の家庭が冠婚葬祭を大事にする習慣があったので、自然に慣れるうちに、冠婚葬祭の家族の和を保つ上での有効性を見直すようになった。祝い事に限らず、法事などの仏事もそれなりに、意味があると思うようになった。

社史関連エッセイ挿図27

 図は、家族間のコミュニケーションのパターンを双方向の矢印で示したものである。夫婦は、言うまでもなく、縁あって知り合った他人同士が家庭を持つわけであるが、一緒になった当座はどの夫婦も概ね良好な関係を維持しているものの、時間の流れとともに、その間の過ごし方如何によって、両者の関係は随分違ってくるように思う。自分の周囲を見回すと、シニアになっても変わらずおしどり夫婦のままでいるケースもあるが、離婚まではいかなくても、とうの昔に冷め切った関係になっているという夫婦も珍しくない。翻(ひるがえ)って自分の場合を考えると、人によっては妻の誕生日には欠かさず薔薇の花束を贈る人もいるようであるが、自らの反省も込めて言えば、総じて現役時代は仕事にかまけて妻に対しては十分に気を配っていたとはいえないだろう。退職間近になり子供が独立してからは、罪滅ぼしというわけではないが、遅まきながら結婚記念日に食事をしに行ったり、これは付き合ってもらっていることかもしれないが、マラソン大会に一緒に参加したり、夫婦で国内外に旅行したりするなど、行動を共にすることが多くなった。退職後には、埼玉県主催の「いきがい大学」に2人で入学し、卒業後もその延長線で、同期の仲間とハイキングへ行ったり、女房のオカリナに合わせギター伴奏をしたりするようにもなった。

 子供とのコミュニケーションに関しては、運動会や学園祭などの学校行事には、仕事の合間を縫って出かけた方ではないかと思う。夏冬の休みのときは、安く上がるので、会社の保養所を利用し海水浴やスキーに連れて行った。リフレッシュ休暇などには、北海道や九州・四国にオールキャンプであったがキャラバン旅行をしたこともあった。長男が成人した頃には、家族でチームを組んで近郊の駅伝大会に出たり、全員参加でサスペンス物のDVDを作成したりしたこともあった。子供をどこかに連れて行くというのもよいが、ともすると子供にとって受身的なものになりやすいので、このような子供が主体的に取り組むことのできる参加型のイベントの方が、家族のコミュニケーションをとる上でより好ましいように思う。3人の子供全員が、非行に走ったり、引きこもったりすることもなく育ったのは、このような対応がある程度奏功していたのかもしれないと思っている。

 子供が独立し結婚してからは、子供との関係は孫との関係にもなってくる。孫が生まれると、その成長と共に、出産祝い、お宮参り、お食い初め、餅を担ぐのが慣習の初節句、七五三、入学祝(小中高大)と続き、成人式で関連行事も一段落となる。これらの年を追ったお祝い事とは別に、毎年、子供の誕生会の延長で孫の誕生会は欠かさずやってきた。誕生日は、誰でも年に1度、脇役でなく主人公になれる日であり、いくら子供が多くても、その日だけは否応なくその子に注意を向けることになる。それが大事なのである。そうでないと、目立つ子は親の目を引き登場する場面が多くなるのに対して、そうでない子は陰に隠れ忘れられてしまうからである。家族が多いので、孫が小さい頃は、毎月のように誰かの誕生会をやっていたこともあった。そのうち、何人かまとめてやるようになり、今は、孫だけになってしまったが、それでも誕生祝のメールだけは各自に女房が欠かさず送っているようである。この他に年中行事として、子供との夏冬の旅行に代わって、子供たち一家を連れだって、ディズニーランド、常磐ハワイアンセンター、日光江戸村、USJなどにも足を延ばしたこともあった。

 両親に対するお祝いとしては、還暦、古希、喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿、百寿などの長寿祝いがあるが、80歳で亡くなった実父には、まだ自分も働き盛りで気が回らず、何もしてあげなかった。代わりというわけではないが、叙勲のお祝いだけはしてあげた。実母に対しては、自分も定年前後になり時間的な余裕があったこともあり、米寿、卒寿、白寿の御祝いはしてあげた。義母に対しては、米寿のときお祝いとして家族で温泉に行ったが、義父に対しては何もしてあげなかった。ただし、父の日、母の日には、両方の両親に対して、忘れたときもあったかもしれないが、何らかのプレゼントはしていたと思う。両方の親が健在のときは、年中行事として、正月になるとそれぞれの実家に集まっていたが、実母一人になってからは、長男である自分の家に実母を連れて来て、親戚を集めて新年を祝っていた。

 親戚と顔を合わすのは、結婚式も少なくなった今となっては、葬式、初七日、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌などの法事の場合がほとんどになった。法事は、生まれながらにして相対的な関係が明確な者同士の集まりなので、経済状態や職業や社会的な地位などは関係なく、それぞれの立場がはっきりしているので、臆せずに出席でき、他の人も自然とそれを尊重することになるので、親戚との良好なコミュニケーションを図る上で、それなりに意味があるように思う。ただし、自分の実父の場合は二十七回忌までやったが、そこまでやるケースは少なくなり、親戚も限られた人しか呼ばない場合が多くなったのではないだろうか。

日常の挨拶、イベントや冠婚葬祭は、家族間のコミュニケーションを図る上でのきっかけや場であることは確かで、常日頃から会話を交わし、折に触れ家族に関連した催し物を計画実行すること自体、家族を気遣っていることを形に表わしたものであり、常に家族を気にかけ続けていることの証(あかし)でもあるように思う。ただし、いずれにしろ、家族の絆を築く上で肝心なのは相手に対する思いやりがあるかどうかということに尽きるので、それが形式的なものに陥らないように注意が必要であろう。それと、経験上、家族の存在を最もありがたく感じるのは、自分が窮地に陥ったとき助けてもらった場合ではないだろうか。お祝いごともよいが、いつも良いときばかりではなく、ときには、病気になり弱ってしまったり、悩んで精神的にまいってしまったり、失敗し落ち込んだりするなど、人生はなかなか思う通りにはいかないものである。そういうときにこそ、ありのままの自分を黙って受け入れ助けてくれる、力になってくれる家族のありがたみを感じるのではないだろうか。困ったときに、文字通り親身になって心配し面倒を見てくれる肉親がいることはこの上なく心強いものである。だから、常に心掛けるべきは、とかく人間は、自分が主役で自分を中心に世の中が回っているように思いがちであるが、自分はあくまで脇役で相手が幸せになるにはどうしたらよいかを考えてあげることである。それが家族であれ誰であれ、最も好ましい人との接し方であるように思う。

 


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※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。