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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

1.資本主義を問い直す‐アダム・スミス考‐

 昨今、中国、ロシア、北朝鮮などの、所謂、専制主義国家の振る舞いが、近隣諸国の脅威となっている。特に、ここ数年、これらの国々の覇権主義の傾向が顕著なように感じる。それに対し、欧米を中心とした資本主義を基盤とする民主主義国家は、様々な対抗策を講じているが、なかなか、最善手が見つからず、手をこまねいているのが現状のように思う。そんな世界情勢を見て、識者の中には「資本主義経済でなり立っている民主主義国家は、確かに自由ではあるが、各々が勝手に意思表示し行動するのでまとまりがなく、従って意思決定に手間取るので効率が悪い。一方、専制政治の全体主義国家は、国民の統制がとりやすいので効率がよく、合理的で国家の運営システムとして優れており、このままだと、民主主義陣営は専制主義国家の後塵を拝するようになってしまうのではないか」との見方をする人がいる。

 現役時代、サラリーマン生活の終盤戦に来て、資本主義に対して同じような疑問を抱いたときがあった。民間会社に就職し働き始めてから定年近くまで、営利団体である以上どの職種も大なり小なり同じだと思うが、何とかして仕事を受注し、そこからできるだけ多くの利益を得ることに躍起(やっき)になっていた。それに何の疑問も感じなかった。日々、目の前のことに追われて、半ばがむしゃらに仕事をしてきた。それが、定年間近になり、最前線から離れ精神的にも少し余裕ができ、立場上も、社会の中での会社の位置づけとか、会社が日本のような資本主義社会の中でどんな役割を演じているかなどということを大所高所から俯瞰(ふかん)するようになり、ふと、かつて若かりし頃抱いた「資本主義社会は人々を幸せにするのか」という根本的疑問が蘇(よみがえ)ってきた。学生時代に悩んだ、「資本主義体制のもと、利潤を追求する企業に身をゆだねてもよいかどうか」という個人的な疑問が再燃してきた。と言ってもいまさら、人生をやり直すこともできない以上、どうすることもできないわけであるが、疑問だけは晴らしておきたい、そこのところを、はっきりしておかないと、確固たる考えを持っていないと、自信をもって仕事もできないし、後進を指導することもできない。そんな思いで、経済学の祖、アダム・スミスまで遡(さかのぼ)り、調べてみることにした。

 アダム・スミスというと、よく、今日のいわば弱肉強食の市場経済の理論的擁護者のように捉(とら)える人がいるが、けして、そうではない。アダム・スミスは、規制を撤廃し全てを市場競争原理に任せさえすれば、無条件に、経済が成長し国が豊かになると考えていたわけではない。アダム・スミスは、「国富論」と並ぶもう一つの著「道徳感情論」の中で富と幸福の関係は相関性はあるが比例せず図に示す関係にあるとしている。



富と幸福の関係



 即ち、「人間が幸福になるためには、図中点Cに対応する必要最小限の水準の富が必要である。この水準を下回る線分ABに対応する富の状態は失業者、浮浪者などの貧困の状態である。しかし、逆にC点以上の富を得たとしても、それとともに幸福の度合いが永遠に増すわけではなく、やがてD.点を過ぎ豪華な食事、美しい衣装、立派な邸宅を手に入れても、取るに足らない効用をもつ愛玩物にすぎず、それらを管理しなければならない煩わしさだけが増えるだけで、けして幸福は増加しない」とアダム・スミスは考えた。つまり、D点以降の富と幸福の関係は線分DEのように表わすことができ、ある一定以上富が増しても幸福の量は変わらないと想定したわけである。この根拠は、まさしく、人間の本性に対するアダム・スミスの洞察によるもので、人間の幸福の基準は「心の平静さ」にあるとする考え方によるものである。アダム・スミスは、「資本家は、一定の富を得た後も、線分DFが示すように、富の増加により幸福が増大するという幻想を追い求め資本を増大させることに躍起(やっき)になる。しかし、この行為により、資本が蓄積され産業が振興し、結果的に貧困層に雇用機会を与え境遇を改善することに貢献することになる。即ち、資本家はそれを意図することなく、それを知ることなしに、まさに『見えざる手』に導かれて社会の利益を推し進め、最低水準の富すらも持たない人々、世間から無視される人々に仕事と所得を得させ、心の平静、即ち幸福を得させることが達成されることになる」と考えた。つまり、経済の発展は線分ABの間にいる貧困である人々の数を減らすことであり、市場メカニズムという仕組みが機能すれば、これらの貧困と失意の中で苦しむ人々に「救いの手」が差し伸べられ幸福が人々の間に平等に分配されると、アダム・スミスは考えたのである。

「人間は社会的動物である」と言ったのはアリストテレスだが、アダム・スミスも人間の本性は、他人から関心を持たれ同感されることを望む社会的存在であるという考え方を持っていたと思われる。そして、「同感が得られるかどうかを判断するために心の中に公平な観察者を形成し、自分の感情や行為が観察者の是認するものになるように努める。このような人間の本性が正義の法の土台をなし、社会秩序を形成している。そして、人間の折にふれた感情には、『賢明さ』と『弱さ』の両面があり、『賢明さ』は公平な観察者の判断に従って行動することを促し、『弱さ』は観察者よりも自分の利害を優先して振舞うことを促すので、『賢明さ』は社会の秩序をもたらす役割が、『弱さ』には社会の繁栄をもたらす役割が与えられている」とアダム・スミスは述べている。ここで、「弱さ」は一見すると悪徳のように感じるが、「見えざる手」に導かれて、結果として、社会の繁栄という目的の実現に貢献すると、アダム・スミスは説いている。しかし、注目すべきは、その条件として「見えざる手」が十分機能するには、「弱さ」は完全に封じ込められてはならないが放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなくてはならないと付け加えていることである。即ち、正義感によって制御される野心、フェアプレイのルールに則ってなされる競争のみが、市場原理を正常に起動させ、社会に富をもたらすとアダム・スミスは考えたわけである。市場についても、アダム・スミスは「無償の世話は家族や親しい人に対してのみしか期待できない以上、自分の自愛心に基づく欲求を、ある一致した評価のもとで交換する場が市場である。そして、市場は、多数の人が参加して世話を交換し合う互恵の場であって、競争は互恵の質を高め量を増すためにある」と述べている。総じて言えば、資本主義社会とは、人間の本性としての自愛心(利己心)と同感(正義)に支えられて初めて成立するシステムであると、アダム・スミスは考えたわけである。

 確かに、今日の資本主義は、グローバル化の行き過ぎなどにより、経済格差、地球環境問題など、多くの課題を生じさせている。しかし、これは資本主義そのものが悪いのではなく、アダム・スミス流に解釈すれば、正義に基づく市場メカニズムを制御するシステムが機能していないか、あるいは不十分であることに起因すると言えるのではないだろうか。チャーチルが「民主主義は最悪な政治形態らしい、ただし、これまでに試みられたすべての形態を別にすれば(民主主義が完全ではないことは確かだが、我々はそれ以上の国民の意思が反映できる政治形態を持たない)」と語ったことは有名だが、市場競争原理を基とする資本主義についても同様のことが言えるのではないだろうか。確かに、資本主義社会も様々な矛盾を抱えておりとても理想社会とは言えないかもしれない。民意を尊重するので物事を決めるのが面倒臭く、情報公開を旨とするので外見上みっともない面もあるかもしれない。しかし、アダムとイブの例えにあるように、既に自由を知ってしまった我々にとって、もはやそれを手放すことはできない。なぜなら、自由とは、誰からの命令も規制もうけずに自らの目的を追求できることであり、資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することに他ならないからである。そう覚悟ができたならば、我々はそれに修正を加えうまく機能させるように工夫していくのが現実的対応のように思う。アダム・スミスの描いた理想の互恵社会に一歩でも近づくように、自らのそれぞれの守備範囲の中で社会正義にかなった行動をしていくことのように思う。これは、一見、表面的には理路整然としているように見えても、その内実は、自由が奪われ束縛されている全体主義国家では、けして成しえないことである。

 最後に、かつての私と同様、資本主義に疑問をお持ちの方がいるとすれば、楽観過ぎるのではないかという誹(そし)りを受けるのは覚悟の上で、あえて「ご安心あれ」と言いたい。「宿命としての資本主義社会において、自らの仕事に自信と誇りを持って誠実に取り組んでさえいれば、人間の本性に基づく市場メカニズムが機能することにより、より多くの人々に幸福がもたらされるに違いない」と。


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』など。