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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

2.「会社は誰のものか」再考‐企業買収で感じたこと‐

 今から20年ほど前、ライヴドア事件やいくつかの株主代表訴訟などが世間を騒がしていた頃、「会社は誰のものか」という論議が盛んに行われていた。考えてみれば、入社以来、「会社は誰のものか」などということは考えたこともなかった。所有者の候補としては、会社のステークホルダー(利害関係者)という意味では、顧客や地域社会も含まれるが、直接的には、株主、経営者、社員の3者であろう。

 入社間もない頃、組合活動をしていて、経営者に対して 給与のアップ、就業環境や福利厚生の改善などの要求を労働者の立場から突きつけ、会社側と対峙したときに、雇用者と被雇用者、経営者と社員という構図は意識したが、株主を意識したことは全くなかった。株主を意識したのは、サラリーマン生活の終盤戦に入り経営陣の一角を担うようになってからであった。株主総会の場で、経営側の一員として、想定質問とその回答を準備し臨んだとき、初めて生の人間としてのリアルな株主の存在を知ることになった。もう一つ、株主を意識したのは、企業買収(M&A)に関わったときである。当時、国内外で企業買収の事例が現出していて、勤めていた会社でも、外国ファンドなどに狙われていないかと神経をとがらせ、気心の知れた会社との株の持ち合い、自社株を増やすなどの買収防衛策を講じていた。その一方で、逆に、業績拡大のため、目ぼしい会社を数社リストアップし、密かに狙いをつけた会社の財務諸表、株主の持ち株比率などの実情を調査し、親和性がありシナジー効果が期待できるかなどを検討し、買収することを試みたこともあった。

 企業買収というと、随分、華々しく派手な振る舞いのように映るが、現実は、もっと泥臭く、手間のかかるものである。ハゲタカファンドのように、初めから、買って企業価値が上がればすぐに売りぬき利ざやを稼ぐのではなく、買収後も、共に協力して歩むつもりならば、単に、金に物を言わせて買えば、それで終わりというわけではない。企業買収のきっかけは、トップ同士が学生時代の友人であった、仕事で共同企業体(JV)を組んで馴染があったなど様々である。ただし、業績は好調だが、後継者がいないので将来を考えてというようなケースもあるかもしれないが、大抵は、経営が行き詰まり業績が低迷しているなど、何らかの理由で窮地に陥っている場合が多いのではないだろうか。買う側は、業容を拡大したいという積極的な理由があるかもしれないが、対照的に買われる側にはネガティブな事情がある場合が多い気がする。従って、抱えている問題が何かを事前に突き止めておくことが企業買収の際には非常に重要となる。問題点としては、大きく3つあると思う。一つは、事業内容に問題があるケースで、たとえば、既に、時代の移り変わりにより、市場が縮小し需要が乏しくなった分野を対象に事業を展開している場合である。当然、顧客も旧態依然としたままで新規顧客も開拓されていない。二つ目は、経営の問題である。多くは、事業量に対して従業員数が多く生産性が低い体質になっている場合である。リストラや間接部門のスリム化など、人事政策や組織改革が必要となる。三つ目はリソースの問題で、技術そのものが陳腐化していて競争力がなかったり、需要とのミスマッチにより必要とする人材が育っていない場合である。

  企業買収は生易しいものではない。いずれの問題も一筋縄では解決できるものではなく、痛みを伴うこともあるので、企業買収を実行するとなると、それ相応の覚悟がいる。買収した立場をひけらかして、上から目線で高飛車な態度をとったり、金銭的なやり取りだけに終始したり、契約条件を笠に杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振る舞っていたのではうまくいくはずがない。担当者は、身を挺(てい)して飛び込み、辛抱強く丁寧に対応する必要がでてくる。特に、勤めていたようなコンサルタント企業の場合は、主な資産と言えば、工場や機械などの有形資産ではなく、人という無形資産、即ち、人的資本しかないわけで、やり方を間違って、買収した矢先に、肝心な人が流出してしまい蛻(もぬけ)の殻になってしまったのでは元も子もない、何のために買収したのかわからなくなってしまう。会社を去らないまでも、やる気を失ってしまっては、生産性が低下し期待した効果も得られないことになる。成功の秘訣は、お互い一苦労することは確かなので、買う会社のみならず、買われる会社にとってもメリットがあり、社員の末端までが一緒になって良かったと思える、前向きな動機を付与することである。たとえば、仕事をする際の事業分野が広がり顧客が増える、事業展開する地域が広がる、自らのキャリアアップが図れる、就業環境が改善され福利厚生が充実することなどを、実感として感じられるようにすることである。過渡的には、旧経営陣との関係など、多少の摩擦があるのは仕方ないことではあるが、最終的には相互信頼を勝ちとることが最重要である。決めては、一言でいうと、親心で取り組むことかもしれない。厳しいことを言い断行するが、それはあくまでも相互の発展のためで、決して諦めず、投げ出さずに最後まで寄り添う気構えが必要である。社名は残すなど、買われる側の企業文化を尊重することも忘れてはならない。

  もとより、資本主義社会は契約関係により成り立っており、近年、法人制度が導入されたことにより交換と契約の範囲は拡大し、資本主義経済は飛躍的に現実社会に浸透していった。資本家(株主)は株式を取得することにより会社を所有し、法人(会社)は、社員、顧客、協力会社などと様々な契約を結び事業を営む。しかし、法人(会社)と会社の代表者(経営者)との関係は、契約関係でなく信任関係で結ばれている。会社法では、会社の私物化を防ぐため、経営者には会社に対する忠実義務(取締役は法令・定款規定と株主総会会議を遵守し、会社のため忠実に責務を果たす義務がある)と善管注意義務(会社と委任関係にある取締役は良識ある管理者として注意深く職務にあたらなければならない)の2つの義務が課されている。従って、経営者は、会社の為に自分の利益を放棄して倫理的に振る舞うことが要求されることになる。即ち、資本主義社会は契約関係だけで成り立っているわけではなく、倫理性を要求する信任関係が必然的にその中に組み込まれていることになる。言い換えれば、資本主義とは、その中核の部分で、人間が倫理的であることを必要とする社会システムであると言える。企業買収の経験を通じて、企業間の関係も、それを良好に運営するには、型にはまった契約関係だけでは難しく、やはり、相互信頼が肝なので、もっと人間臭い、人間味溢れる対応が重要になるとつくづく感じた。

社史関連エッセイ挿図1

 入社してから30年位は社員として、定年間近からは経営者として、退職してからは一人の株主として会社に関わってきた。今「会社は誰のものか」と問われれば、商法上は株主のものかもしれないが、実質的には経営者や社員の方が優先順位は高いのではないかと考えている。株主の中には、その会社の将来の発展を見込んで投資するという人もいるかもしれないが、大半は、連日、株価の値動きを見て、安い時に買って高い時に売りぬく金目当ての人で、会社の現状や将来に関してはあくまで他人事で、当事者意識は希薄だと思う。株主がモノとして会社を所有すると考える米国流の株主主権型は現実を十分に表しているとは思えないし、あるべき形とは言えない気がする。会社が良好に運営され、資本主義経済のエンジン、社会の公器としての役割を十二分に発揮するには、やはり、日本流の血の通った会社共同体的なものの方が正解ではないかと思う。


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』など。