40代中頃から、学位を取得したのをきっかけに、社の研究開発全般に関わるようになった。研究開発テーマの中で、事業部門から依頼された研究開発は、既存の製品やサービスに新たな付加価値を与えるような応用研究が多く、開発期間も短くて済む。そして、成果を事業部門でも使いこなせるように、講習会や研修会を開催し、技術移転できれば概(おおむ)ね完了ということになる。その一方で、事業部門からの依頼があったわけではない基礎研究成果をもとに、新たな事業を立ち上げるとなると、そのプロセスも大変で、長時間を要することになる。研究所の責任者を任されていた頃、たとえば、間伐材を活用したバイオマスガス発電や、微生物を利用した汚染された土壌の浄化など、いくつかの事業化を目指したテーマに取り組んだことがあった。
研究開発からその成果を活用し事業化するまでの流れの中には、3つの障壁があると言われている。まず初めに立ちふさがるのは、「魔の川」と呼ばれる障壁である。研究開発成果がサイエンス(科学)のレベルで終わるか、社会のニーズに直結したようなテクノロジー(技術)となりえるかという点である。研究の結果、理論的には可能で実験室では成功したからといって、その段階では製品化されたわけではなく、技術として現場で適用可能になったわけでもない。研究開発成果を社会に何らかの価値を与える技術として構築する際には、研究開発成果の基幹技術単独ではなく、いくつかの異業種の周辺技術を必要とし、それらを組み合わせパッケージ化することが一般的である。必然的に、研究段階から大学も含めた異業種と共同体を組むケースが多くなる。その場合、どのパートナーを選ぶかが先々大きく影響することになるが、肝心なのは、お互い相手から見て魅力的な価値ある特化技術を所有しているかどうかという点である。その意味で、借り物でない自社開発のオリジナル技術を持っているかどうかが重要となる。また、この段階で留意すべきは、技術のアイデアが浮かんだら、その段階で、早期に、模倣されないための特許や著作権の権利化を行うことである。いずれにしろ、この段階で大事なことは、開発された技術に新規性、独創性、優秀性があるという点である。
2つ目の障壁は「死の谷」という障壁である。技術を活用した製品・サービスが出来上がっても採算性がとれなければビジネスにはならない。いくら製品・サービスが優れていても、コストがかかりビジネスとしては成立しない場合も少なからずある。制作した試作品(プロットタイプ)の製作コストから割り出した最低価格と、市場性から見た価格を両睨みし、採算性があるか、ビジネスとして成り立つかどうかの見通しを立てる必要がある。また、新規事業の場合、これまでの既存事業のフィールドとは違うので、競争環境がどうなっているかを、予め確認しておく必要がある。社のポジションが、リーダー、チャレンジャー、ニッチャー、フォロワーの何れなのかを当初から認識し、競争優位性があるかどうかを確認しておくことが重要である。
3つ目の障壁は「ダーウィンの海」である。新技術を核とした製品・サービスの試作品(プロットタイプ)が出来、採算の見通しが立ったとしても、即、市場に導入するには不十分である。事業化は、大きな投資を伴い、また、顧客対応の面からも、旗を挙げたら容易に撤退するわけには行かない。詳細の検討に入る前に、まず確認すべきことは、既存の社の事業との親和性、適合性に関するチェックである。ビジネス化は可能としても、企業理念と整合するか、既存事業との相乗効果はあるか、資金力に見合った事業規模かなどに関して留意する必要がある。次に、安定供給、品質確保のために、まず、販売価格の設定と販売ルートを検討する。販売価格は、一旦決めたものは明白な理由がない限り変更できないので、先々を見通し慎重に決めることが肝心である。その際、生産コスト、適正利潤、これまでの開発費用の転嫁を加味した生産価格と、競合商品や代替品の市場価格の両方を考慮する必要がある。販売ルートは自社販売が最善策とは限らず、既に、強力な販売網を擁する組織と代理店契約する方が販売促進の面でも得策である場合も少なくない。また、拡大する市場に対応する、あるいは新たな市場を創成するには、受注、生産、販売の組織体制の構築が必要となる。生産に関しては、小口の注文生産のうちはよいが、商品がヒットし安定供給のための大量生産が必要となった場合は設備投資を行い量産体制を構築する必要が生じる。また、一定の品質の確保のためには、品質保証のための技術監査システムなども必要で、事業の持続性を担保するには、販売後の保守(メンテナンス)や、新たな商品を開発するための研究開発投資なども不可欠になってくる。
研究開発成果を活用した新規事業の立ち上げは、「千三つ」と言う人がいるように、成功すればリターンは大きいが、その確率は極めて低く、ハイリスクであることは間違いない。時代性や運不運もあり、うまくいっても軌道に乗るまでに10年以上を要する場合も少なくない。着眼は大局でも着手は小局から始めるべきであり、致命的な痛手を負わないためには、当初から撤退の条件や仕組みをビルドインしておくことも大事である。とても職制に応じて義務的に扱える代物ではなく、担当者はオーナーシップを持って不退転の覚悟で取り組む必要がある。また、担当者が社内では専門家として認められていても、一歩外へ出れば素人の域を出ないことも間々あり、そのような場合は事業化促進のため経験の豊富な人材を外部から招聘(しょうへい)することも考えるべきである。
冒頭に紹介した2つのプロジェクトも、「魔の川」は何とか渡り試作品の完成までは行ったが、ビジネス化のためには技術の完成度が不十分で、「死の谷」を越えることはできなかった。完成までは相当時間を要することがわかり、勤めていた会社の規模では耐えられないと判断されたため、共同開発していた規模の大きい会社にそれまでの成果を渡し担当者を移籍させたり、共同研究していた大学に開発技術を移管したりして、社としては撤退せざるを得なかった。新規事業は、事業に惚れ込み困難を乗り越える情熱と強い意志を持った人材と、それを根気良く見守るサポート体制があり、たとえ失敗に終わっても、担当者がそれを理由に不利益を被らない仕組みがあって初めて成就する仕事のように思う。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。