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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

22.同窓の縁-その得失-

 箱根駅伝など、スポーツイベントなどで顕著なように、母校ということだけで盛り上がり応援したり、初対面でも同窓ということだけで親近感を覚えたりすることはよくあることであるが、社会において、同窓というものがどのような意味を持つかということは、学生のときは意外と分からないものである。

 高校時代、シュバイツァーに憧れ開発途上国で海外支援の仕事につきたいと思い、それには何か技術の習得が必要ということに思い到り、祖父が建設に関わる職人であったことも頭の片隅にあったせいか、土木の道を選んだ。大学については、特にどうしても行きたいという志望校があったわけではなく、早く技術を身に付け海外へ行きたいと思っていたので、浪人はせずに受かった大学にすんなり入学した。自分が入学した頃は学園紛争の真っただ中で、校舎が封鎖されるなどまともに勉強もできない環境にあり、だからというわけではないがクラブ活動に夢中になり、大学4年間は真面目に授業に出ず勉強らしい勉強もしなかった。当然、成績も下から数えた方が早い方で、卒業できるかどうかのボーダーラインであった。ゼミの指導教官から、卒業するかどうか聞かれたが、無理に卒業しても何も身についていないので、親には申し訳ないと思ったが1年留年することにした。そんなこともあって、大学5年目はみっちり勉強し、その結果、海外支援を主たる事業とする希望する会社に就職することができた。入社すると、社内に大学の先輩は居ることはいたが、少数派で、特に同窓だからと目をかけられることもなく、工学系が後発の大学だったため、有名一流大学のように徒党を組み定期的に集まるというようなこともなかった。

社史関連エッセイ挿図22


 初めて、同窓であることを意識したのは、表に示すように、30代の初め、南米で開催された国際会議に論文発表に行った際、日本から同行した仲間の中に、同窓の先輩がいたことからであった。その先輩の方も、当時、同じ業界で目立った活動をしている同窓生が少なかったため、希少性からか目にとめてくれ、可愛がってくれた。同じ頃、東京都の地下鉄12号線(現大江戸線)の建設現場に同窓の先輩がいて、それを知らずに、地下鉄建設により影響を受ける地中線管理者(電力事業者)側の立場で、近接施工管理のプロポーザルを持ち込んだ際、「民間の分際(ぶんざい)で、被害者(電力事業者)の立場を笠に着て、加害者(東京都)に営業を仕掛けるとは、けしからん」と、不届き者呼ばわりで、こっぴどく叱られ、けんもほろろに追い返されたことがあった。ところが、しばらくして、どこから聞いたのかその先輩の方で、こちらが同窓の後輩であることがわかると、手のひらを反すように態度が一変し、以後、大変親しくしてくれた。その人の紹介で、御茶ノ水のシーフードレストランに定期的に同窓生が集まっていることを知り、大勢の先輩を紹介してくれた。同窓の先輩は民間企業に勤めている人が多かったが、発注者である官公庁に所属する人も数人いて、損得勘定抜きで色々と力になってくれた。

 当時、自分も40歳手前で課長になり、仕事は順調であったが、徐々に現場から離れ、純粋な技術というよりも益々マネジメント業務が多くなることが気がかりになってきていた。仕事を通じて知り合った社外の人の中には、博士号を取得している人も何人かおり、自分としてもそれまで専門誌に技術論文はある程度投稿していたので、チャンスがあればいつか博士に挑戦してみたいとおぼろげながら思うようになっていた。丁度、その頃、新卒採用のためのリクルーターとして母校に足を運ぶようになり、大学との接点も出てきたので、やるなら今をおいてないと思い、一念(いちねん)発起(ほっき)し博士にチャレンジしてみることにした。しかし、考えてみれば、社会的地位があるわけではなく、弟子と呼ばれる立場でもない自分にとって、無謀な挑戦のようにも思え、とりあえず、先の国際会議で知り合った先輩に相談してみることにした。その人は、既に、他大学で博士号を取得しており、母校に博士課程を設立するための中心的人物で、何とか文部省(現文科省)の許可はおりたものの、適当な人物がいないか、丁度、探しているところだった。都内のとある喫茶店で落ち合い、思いの程を告げると、それを確かめるように、これまで学位を志していた者が、内外からのクレームで頓挫(とんざ)した事実を一頻(ひとしき)り語った後、「内堀は俺に任せて君は外堀を固めろ」と二つ返事で、背中を押してくれた。母校の非常勤講師の経験もあり学内での信頼も厚い人の言葉に、百(ひゃく)人力(にんりき)を得た思いだった。同一分野の学識経験者は、これまでの学協会活動を通じてある程度名前も売れていたので問題ないと話すと、「分析や発想はオリジナルなものでも、データは仕事を通じて得たものなので、顧客や会社にはくれぐれも不義理をしないように」という貴重なアドバイスもいただいた。

 早速、その人の紹介で論文の目次と要旨を携え久しぶりに大学の恩師を訪ねた。すると、「実は今年退官するので後任者に申し送っておく」という思いがけない言葉が返ってきた。数ヵ月後、指導教官に初めてお会いしたが、前任者からの申し送りとはいえ、着任早々、やっかいな仕事が待ち受けていて、初めは気乗りがしない風だった。ともあれ、こちらとしては相手の気が変わらないうちに、何とか論文を仕上げないことにはと、早々に、社の倉庫から自宅に関連する大量の資料を持ち込み、データの整理分析に取り掛かった。やってみると、予想以上に時間を要することがわかり、週休2日制になったとはいえ、とても休日図書館へ通い詰めるだけでは時間が足りず、ウィークデーに仕事と平行して論文に費やす時間を生み出す必要があることが判明した。やむなく、できるだけ定時に帰れるように日々の段取りを工夫したり、帰宅途中、塾帰りの子供を待つファミレスの雑踏の中でよく筆を走らせたりしていた。論文作成中は章別に出来あがるごとに、ほぼ1ヶ月に1度の割合で、大学に通い一字一句に至るまで熱心に指導を受けた。途中、大学側が博士課程の初めてチャレンジャーということで手続きに慣れておらず一年先延ばしになるなど、ハプニングもあったが、何とか足掛け4年でゴールにたどり着くことができた。社内だけでなく、それまで応援してくれた同窓の方々からも祝福を受けた。

 それから10年近く、同窓の集まりには顔を出していたものの、母校との接触はなかったが、ある日突然、博士号の指導教官から電話がかかってきた。要件は、非常勤講師をやらないかというものだった。しかし、50代半ばになり多忙を極めていた時期であり、一度は断ろうと思ったが、半ば、学位をとった者が母校に貢献するのは勤めになっていたようだったので、自信はなかったが引き受けることにした。仕事の合間を縫って、週1回、1コマ1.5時間の授業を受け持つことになった。1年目は、半期14回分のシラバスを作り、毎回の授業の教材を準備するのに結構手間を要した。授業中は、こちらも、苦労して作った資料を必死に説明しているので、授業中、うとうとするくらいはよいが、帽子をかぶったままだったり、携帯をいじっていたり、用を足す以外で部屋を出入りするのは禁止することにした。代返が頻繁に行われていることがわかり、出欠用紙を配り筆跡判定をしたこともあった。担当した科目は3年次の授業であったが、必須科目だったので、単位を取れずに毎年留年している学生が受講生約100人の中の半数近くいた。ある夜、そんな学生の一人から自宅に電話がかかってきて、毎年留年し、既に、在籍限度の8年目であり、この単位を取れないと学校を去らなければならず、就職も決まっているのに、親に顔向けできないというものだった。情に流されずに、機械的に採点し、冷酷に判断すればよいと思っていたが、丁度、その頃、三男が大学生で学生の気持ちもある程度察しがついたので、杓子定規(しゃくしじょうぎ)にするのは余りに不憫かと思い、何回か追試をして通してあげることにした。同僚の教官からも、既に、就職が決まっているので、ゼミの学生を何とか通してくれないかと、同じような話を頼み込まれたこともあった。非常勤講師を初めて4年目ぐらいから、担当科目が必須でなく選択になり気分的にも楽になったが、何だかんだ6年間大学に通った。大人数なので授業だけでなく採点などにもそれなりに苦労したが、若者相手なので、一時、日常業務から離れ、気分転換にはなった。教師の子として生まれ、他の3人の兄弟は教師になったにも拘(かか)わらず、1人だけ民間企業に就職したわけであったが、「蛙の子は蛙」とはよくいったもので、結局、周り回って「教育」という仕事にかかわることになったかと、にわか教師の経験を通じてしみじみ感じた。

 それから1、2年後、60代の初めになり再び同窓との関わりが出てきた。互選で学科の同窓会長を3年間任されることになった。それまで先輩たちとは接点があったが、後輩たちの中にも、官民を問わず優秀な人材がいることがわかった。一緒に、現役学生のための就職セミナーを発案したが、その後、現在まで受け継がれ開催されているようである。今でも、たまに顔を出すと快く迎えてくれる後輩たちがいることは、大変ありがたいことだと思っている。

 卒業生の母校に対する思いは裏腹で、優越感と劣等感があると思う。優越感は、人から羨望(せんぼう)の眼で見られたり、具体的なメリットがあったりしたときに感じるものである。その最たるものが「学閥」で、考え方によっては差別の温床になっているともいえる。一方、劣等感は、人から蔑(さげす)まれたり、デメリットがあったりしたときに感じるものである。よく、同窓の集まりに行くとほっとするのは、学歴を気にしなくて済むからで、同窓生とわかると理屈抜きに、半ば無防備に支援したり、面倒を見たりするのは、同じ出自を持つ身として、不利益を被ったときの痛みを共有できるからではないだろうか。振り返ってみると、勤めていた会社は所謂(いわゆる)一流大学の卒業者が多かったので、少なくとも入社後10年くらいは、どちらかというと後者の感情を抱いていたような気がする。当時、資格取得に精を出していたのもその現れかもしれない。自分の場合は、運よく、30代前半に国際会議に行った際、同窓の良き先輩と知り合うことができ、同窓であるという理由だけで、目をかけてもらい、それが学位取得に繋がり、芋づる式に大勢の先輩から仕事上助けてもらい、大学の教壇に立つという貴重な経験もすることができた。もしも、他大学へ行っていたら、こうもトントン拍子にことは運ばなかったであろう。入学当初は全く予想していなかったが、結果論になるかもしれないが、就職してから母校とのつながりが深まり、思いがけず同窓の方々に大変世話になった。今から思うと、やはり縁みたいものがあったのかもしれない。

 昔ほどではないかもしれないが、今も、歴然と学歴社会は残っている。どの学校を出たかということは、公私ともに社会生活を営む際の様々な場面で顔を出してくる。競争社会においては、時と場合によって得失があり、アドバンテージにもなりハンディキャップにもなるものである。いずれにしろ、人間は、とかく何かとレッテルを貼ったりラベルを比較したりしたがる習性があるので、ある程度仕方のないことかもしれないが、同窓愛を持つのは個人の勝手であるが、よく、最高学府といわれるブランド大学を出た人に見られるように、それをこれ見よがしに公然とひけらかすのは、人間として、厳に慎むべきことのように思う。

 


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。