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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

23.働くということ-アルバイトの効用-

 生計を立てる上で、まず必要になるのは収入で、そのためには何らかの形で働く必要が出てくる。誰しも、働くことにより収入を得ることを初めて実感するのは、学生時代のアルバイトの経験ではないだろうか。アルバイトは、それまで、親の庇護(ひご)のもとにあった者が、そこを離れ、突如、社会に放り出されるようなものである。自ずと、世の中の常識、厳しさ、仕(し)来(きた)りなどを肌で感ずることになるので、世間を知るまたとない機会といえる。今の学生は、よくコンビニかファミレスなどで働いているようだが、自分が学生のときはそういうものはなかった。自分の学生時代を振り返ると、図に示すように、単発的なもの、比較的長く続いたもの、色々あるが、友人の伝手(つて)を頼って、実にたくさんの種類のアルバイトをしたものだと思う。学校を出てから同じことをしていたら、今でいうフリーターということになっていたかもしれない。しかし、このアルバイトの体験が、社会の成り立ちの一端を知るまたとない機会になっただけでなく、後々、職業を選ぶ上で奏功したことは間違いない。 

社史関連エッセイ挿図23

 学生時代に経験したアルバイトには、いずれも額に汗してという意味では変わらないが、時間給であるか歩合であるかは別にして、労務を提供するだけのものと、商売の様に、必要な機材や材料を調達し、集客を行い、得られた売り上げから収入を得るというビジネスの一切を任されてやるものとがあった。そして、労務提供は、知的労働と肉体労働に分かれ、その中で、一番時間当たりの単価がよかったのは知的労働の一つである家庭教師であった。小学生と中学生を見たことがあったが、何も準備をせずに子供の家に向かい、教科書を開くこともなく、その場で問題集を見て、子供にやらせている間に自分も解いて、答え合わせをするというもので、随分、いい加減なものだった。一度、用事があり自分が行けなかったとき、高校の教師をしていた2歳年上の姉に、夏休みだったので、ピンチヒッターで行ってもらったことがあった。後で、子供から姉の方がよくわかったと聞き、やはり、教えるには教えるだけのノウハウ、プロとしての技術というものがあることを気付かされた。いくら、アルバイトだからといって、行き当たりばったりが許されるものではないと、反省させられた。思えば、外国人から英語を習った経験からいっても、英国人や米国人ならば乞食でも英語を話すわけだから、英語を話せれば誰でも教師が勤まるというわけではない。英語を教えた経験があるかどうかが問題であるということなのであろう。知的労働にあてはまるかどうかはわからないが、調査会社の調査員として、一般家庭を対象に、車に関するアンケートをしたことがあった。歩合制で片端から飛び込みで行うわけであるが、よくよく考えれば当たり前かもしれないが、相当警戒された。ジーパンでぼさぼさ頭だったので、うさん臭い押し売りかなにかと思われたのであろう、ドアを開けずに鎖をかけたまま、質問に答える人が多かった。人は、見知らぬもの、得体のしれないものには警戒心を抱くものだということを、今更のように感じたのを覚えている。

 肉体労働のアルバイトも随分やった。高校3年の大晦日、米屋で餅の配達のアルバイトをやった。初めてのアルバイトであったが、柔らかい餅を自転車の荷台に乗せての運転は、予想以上に難しいものであることがわかった。運送屋でミシンの配達をしたときは、今では考えられないが、運転手がベーコンをつまみに瓶ビールをラッパ飲みしながら運転していた。ベニヤ張りのたこ部屋みたいところに、2,3人押し込められて生活していたのでストレスがたまっていたのだろう、あおり運転も平気でしていた。電話帳を自転車の荷台に乗せられるだけ乗せて、一軒一軒配るアルバイトもやった。歩合制で、配達した家の数だけ稼げたが、途中、突然腹が痛くなり、やむなく、無謀にも、空き家に押し入り用を足したこともあった。その他、配達以外にも、指先が痛くなるほどひたすらねじ止めを繰り返すスチール棚の組み立て、何をするでもなく時間が経つのを待つだけの、ボーリング場建設現場の夜間警備員、市発注の草刈りと庭木の害虫駆除の仕事などもやった。測量のスタッフ持ちのアルバイトをしたときは、随分、東京近郊の色々な現場を回った。測量は、自分の専門とも直結していたが、偶然とは恐ろしいもので、就職してから、逆に、同じ会社を使う立場になったのには驚かされた。

 学生時代やった肉体労働のアルバイトの中でも極めつきは、日雇い労働者(通称土方)の仕事であった。アルバイトの目的は、小遣い稼ぎがほとんどであったが、大学4年目に家を飛び出したときは、半年ぐらいと短かったが、日雇いの仕事で生活していたことがあった。日雇いの仕事は、お金が欲しい時に、予約も申込もなしで、ただ、朝早く所定の場所で立ちん坊をしていれば、ありつくことができた。山谷や高田馬場の職業安定所の建物近くに早朝行くと、角々に、どこからともなく人が集まり屯(たむろ)していた。朝食用の炊き出しも出ていた。やがて、手配師が来て、指で何人必要かを合図し、手を上げて近づくとミニバンが待っていて、見知らぬ数人と一緒に乗り込むと、作業現場に連れて行かれた。昼食と休憩を挟んで朝から夕方まで働けば、その日のうちにお金を得ることができた。土木現場の廃材(通称がら)を片づける仕事が多く、十分安全が確保されているとはいえない建設中や解体中のビルの中で作業をしていたので、今から思うと危険を伴うリスクのある仕事だったと思う。日給は、確か2500円ぐらいで、当時としては悪くなかったと思うが、中には昼食代がなくて500円前借する人もいた。ある時、仕事を終えその日の日給をもらおうと並んでいると、現場代理人が細かいお金を持っておらず、4人分まとめて1万円を一人の日雇い労働者に渡したことがあった。皆、その人に持ち逃げされてはなるまいと、現場から駅までの帰り道、ぴったりと並んでついて歩き、駅で崩されたお金からその日の稼ぎを得た後、一緒の電車に乗り込んだが、紙袋一つをぶら下げている我々の隣には、けして誰も座って来なかった。臭いがするのか、身なりのせいかわからないが、わざと視線をそらされ、奇異の眼に晒(さら)されたのは確かだった。「差別は、こういうところから生まれるのか、人は、見かけで人を判断するものだ」とそのとき実感した。

 日雇い労働者の仕事を始めた頃は、世間でいうところの社会の底辺にいる人の実態を覗(のぞ)いてみたいという興味本位な気持ちも半分あったが、実際に中に入ってみると、「山」に通う人は自分より年上でひ弱そうな中年の人が多く、もしかしてと期待したようなアナーキーを地で行くような思想的バックグラウンドがあるような人は見当たらず、そのほとんどは、社会から落ちこぼれた人たちばかりであった。前科があったり、借金取りから逃れ身を潜めたりしているといった、脛(すね)に傷を持つ人がほとんどで、身元を明かすことができないので、その場限りの柵(しがらみ)のない日銭の入る日雇いの仕事をしているようであった。体力もあり他のアルバイトにもありつける立場にある自分に対して、「学生のくせに、食い扶持(ぶち)を奪うな」とあからさまに非難されたこともあった。ある時、仕事帰りに知り合った手配師に声をかけられ、新宿でおごってもらったことがあった。調子に乗って飲んでいると、突然、その人の態度が豹変し「いつまでいるのだ、お前ら帰れ」と怒鳴られた。それからしばらくして、朝、いつもと同じように立ちん坊をしていると、その手配師だった人が、いつの間にか、頭を丸めて一兵卒の土方になり下がっている姿を見つけた。何があったかわからなかったが、その変貌(へんぼう)ぶりと余りの落差に、自分が住む世界とは違う伺い知れない別の社会の習わしを垣間見た気がした。

 客商売に関係するアルバイトもいくつかやった。新宿歌舞伎町で食事処のバイトもやったが、もともと、綺麗好きではなく、身なりもかまわない方なので、清潔感に乏しかったのか3日で首になった。上野の焼き鳥屋は、大学のクラブが寄付をもらっており資金源になっていたので、その代わりというわけではなかったが、部員が代わる代わるにバイトをしていた。年末など繁忙期のみであったが、夕方から終電まで立ちっぱなしで給仕をした。足掛け5年やったので、客商売をする上での、たとえば、前日仕込んだ古いネタは客にさとられないように「兄貴」と呼んだり、等級の違う日本酒を調合して特級として販売したりするなど、商売をする上での習わしや裏事情も色々知ることになった。

 居酒屋などの店舗のアルバイトはいずれも時給であったが、祭りの際のテキ屋のように、屋台を一台任されて商売をしたこともあった。知り合いのお好み屋の店主から屋台を、確か1000円で借り、吉祥寺の駅前でたこ焼き屋をやった。屋台主は、四国から出てきた夫婦であったが、屋台一台で稼いだお金で、西荻窪に店を出したということだった。屋台で稼いでいたときは、可憐な感じの奥さんを表向きは妹ということにして、常連客を繋ぎとめていたようであった。接客商売というのは、商品の中身とは別に、客に対する対応の仕方や印象というものが肝になるということを改めて感じた。小麦粉に水と卵を調合する仕込みは西荻窪の店で済まし、大きなバケツに積めて、バスで吉祥寺まで運んだ。ネギ、たこ、油粕(あぶらかす)などの材料は、別途、自分で調達した。初め、たこ焼きに関しては、酢だこを真だこと間違えて買ってくるほど、ずぶの素人であったが、粉物は卵を入れれば入れるだけうまくなるが、採算上必要最小限に留めること、たこは歯ごたえを感じる最小の大きさにすることなど、商売上のノウハウも、徐々に身に付けて行った。商売は、何しろ、稼げるときに稼ぐというのが鉄則なので、深夜映画のあるときは、鰹節の匂いで客をつりながら、夜を徹して営業していた。客がまだまだ増えそうなときは、小麦粉を薄めて量を増やしたりして間に合わせていた。夕飯も食わずに、売れ残ったたこ焼きを腹の足しにしていたため、下痢をして、慌てて腹巻に隠しておいた紙幣をトイレに落としてしまったこともあった。しばらくすると、どこでかぎつけたのか所場(しょば)代をせびるチンピラが現れるようになった。初めは 、まだ、稼ぎがないとごまかしていたが、あるとき、うっかり100円玉を台の上に並べたままにしていたのが見つかり、ごまかしようがなくなり、黙って無視していると、しびれを切らしたチンピラが「覚えていろよ」という捨て台詞(ぜりふ)を残して立ち去ったことがあった。それでも、まだ、続けようと思ったが、駅前とはいえ、夜中は人通りも少なくなるし、それ以上睨まれると何をされるかわからないと感じたので、それから間もなくして撤退することにした。

 学生時代のアルバイトの経験が、その後の人生にどう影響したかということであるが、職業を選択する上で参考になったことは確かであるように思う。色々な種類のアルバイトをした結果、どんな仕事に自分が向いているかということは、確(しか)とはわからなかったけれども、こういう仕事は向いていないだろうということは、ある程度、察しがついたように思う。たとえば、いつも身なりをきちっとした清潔感がものをいう仕事や、じっとデスクに座っているだけの型にはまった仕事は、退屈するので性に合わない気がした。逆に、職場環境は少々劣悪でも耐えられる自信もついた。かといって、肉体労働で勝負するほど頑強でないこともわかった。適度に現場があり、その一方で知的労働のデスクワークもある仕事が向いている気がした。客商売をやってみて、原価意識はある程度植え付けられた気がしたが、何しろ、一度始めたら休まず突っ走るだけで、儲かると思う好機はけして逃さないようにするとか、四六時中、金勘定のことを考えていなければならないので、あまり得意ではないし、一生の仕事にするのには辛いものがあるように思えた。結局、大学を卒業してから建設コンサルタントという職業についたわけであるが、選ぶにあたって、アルバイトの経験が、手助けにはなったのだろうと、今にして思う。就職してからではけしてできないような体験をして何よりも収穫だったのは、社会には歴然とした階層があるということがわかり、その日暮らしの社会的に恵まれていない人、差別される側に身を置く人の気持ちも、少しは理解できるようになったことではないだろうか。

 


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。