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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

26.住まいの要件-希望と合理性-

 人は一生のうちに、どのくらい住まいを変えるものであろうか。東京生まれのせいもあるが、自分の小中学校時代の友人をみると、意外と、大半が生まれた土地を離れないものである。自分の場合は、父が東京都採用の教員(地方公務員)であったので勤務する学校は変わっても住居を変える必要はなかったこと、大学が東京だったこと、勤務先は全国展開していたが遠方に転勤することはなかったことなどの理由で、住居を変えることは少なかった方だと思う。しかし、そうはいっても、表に示すように、諸々の理由で、何回か転居はした。

社史関連エッセイ挿図26

 初めて生まれ育った西東京の実家を離れたのは大学4年のときであった。それまで、高校は自転車で通える距離にあり、大学も車で30分以内に行けるところにあったので、下宿する必要もなかった。大学のクラブの友人のほとんどが地方出身者で、アパートを借りていたが、その自由な雰囲気に憧(あこが)れ、一人暮らしがしたくて、大学4年のときアパート暮らしを始めた。それまで、2つ上の姉が中学生になる頃に建て増しした2つの子供部屋の1つ(4畳半)を半分ずつ仕切り弟と分けて暮らしていたので、狭かったせいもあったと思う。場所は中央線の高円寺から徒歩で15~20分位の所で、木造2階建ての安アパートであった。3畳一間で家賃は月6000円、トイレ、キッチンは共同で風呂は勿論なかった。トイレが余りに汚かったので、よく近くのアパートの外付きの共同トイレを無断で利用していた。部屋に押入れがなく、ベニヤで囲った穴が開いているだけだったので、そこに布団を収納していた。家具といえるものは本棚一つだけであった。アパートの住民は「訳あり」の人が多かったようで、学生運動をして身を隠している人もいるみたいだった。向かいの部屋の住人が腕に注射を打っているのを目撃したこともあった。気が触れてときたま叫んでいる老婆が髪をとかすたびに落とす髪の毛で、年中廊下が汚れていた。自分が勝手に家を出た手前、仕送りはゼロだったので、自分で生活費を稼ぐしかなく、色々なアルバイトをした。西武線の沼袋まで歩いて行けたので、そこから高田馬場に行き、よく日雇い労働者の仕事をした。お金が足りないときに、思い立って行けば、その日の内に2、3日の食事代は稼ぐことができた。吉祥寺の駅前で、借りた屋台でたこ焼き屋をしたこともあった。安い中古のフォークギターを買って、大学の友達からギターの手ほどきをしてもらい、1日4時間位弾きながら、が鳴り声を立てていた。クラブの友達の下宿と比較すると、圧倒的に劣悪な環境だったけれども、自由があり、自分としては解放された気分を味わっていた。

 そんな生活を半年ほど続けたが、即席ラーメンを箱ごとまとめ買いするなど節約は試みたものの、金銭的に立ち行かなくなり実家に戻ることにした。実家では、丁度、弟が受験生で、自分がいない間に4畳半を占領していたので、居場所がなかった。やむなく、廊下をカーテンで仕切る形で細長い部屋を造り、2段ベッドの一つを持ってきて暮らすことにした。自分から言い出して出て行ったにも拘らず、半年で出戻ったので、情けなさと挫折感もあったが、三食昼寝付きの暮らしは何といっても楽ちんで、おかげで大学5年目は卒論や就職活動に集中することができた。

 5年掛かって大学を無事卒業し就職すると、配属先が東松山の研究所で、会社の寮に入ることになった。寮は、4畳半の一人部屋で、トイレ、風呂は別であった。その寮には10人近く入っていたが、綺麗好きの人は年中掃除をし、部屋を絵画などで飾りつけしていた。一方、自分のような構わない人間の部屋は、埃が溜まり殺風景であった。自分の場合、面倒臭いので、煎餅布団を敷きっぱなしで、湯のみ茶碗などはティッシュペーパーで拭いて済ませていた。会社から帰ると、年中、ギターを弾いていて、傍(はた)からは煩(うるさ)かったと思うが、それでも、代わる代わる寮生がやってきて、たまり場のようになっていた。玄関のすぐ横の部屋だったので、一度、夜更けに、窓ガラスをドンドン叩く音がして、開けてみると痴漢に襲われそうになった女性が飛び込んできたことがあった。痴漢の常習犯だったようで、寮の横で待ち伏せていたので、先輩の車に乗せて人通りのあるところまで送ってあげたのを憶えている。

 寮生活を3年ほど送った後、社内結婚し新居を鶴ヶ島に構えることにした。借上げ社宅には広さの条件があり、それを満足する新築の木造の二軒長屋(2DK)を借り、会社まで車で30分ほどかけて通った。それから半年ほどで、本社に転勤が決まり、最寄り駅から坂戸で乗り換えて池袋まで東上線で行き、そこから有楽町線で麹町まで、全部で1時間半近くかけて通った。坂戸からだと座れないので、流石に立ちっぱなしはきついので、座るために、坂戸から逆方向に一つ前の駅まで戻っていたので、車掌に呼び止められたこともあった。この間に長男が生まれ、親子3人暮らしとなった。

   父が退職となり、退職金で家を建て直すので同居しないかという話が持ち掛けられた。東京へ通うのに楽だろうという息子に対する配慮があったようだが、老後を孫と一緒に暮らしたいという望みもあったようだ。こちらとしても、通勤が楽になるのは確かなので、引っ越すことにした。新築の2階のキッチンとトイレ付きの2DKの部屋に住むことになった。

   最寄り駅から、西武線でも中央線でも1時間以内で会社まで行くことができた。やがて、次男が生まれ、長男と共に同じ幼稚園を卒業し、長男は小学校4年、次男は2年になった。子供の物も増え、勉強机などの配置を考えると手狭になってきたが、増築は難しかったので、まもなく第3子が生まれることもあり、先行きを考え引っ越すことにした。急に、遠方に行くのもどうかと考え、近場でアパートを探すことにした。いくつか当たった結果、小学校が目と鼻の先にある3階建ての3DKのアパートを見つけ、取りあえずそこに住むことにした。余り新しいとはいえないアパートで、通信状況もよくなくテレビは映らなかったが、そこで生まれた3男も含めて家族5人、狭いながらも楽しい我が家という感じであった。

 そのアパートに2年ほどいたが、会社の同僚たちは既に持ち家があり、自分も既に38歳となり、家を建てるならローンを借りる必要があるので、遅すぎないうちにと、本格的に住まい探すこととした。色々当たってみたけれども、西東京周辺では、家族5人が暮らせる30坪以上の家となると、支払い能力からいって無理ということがわかった。もっと遠方ということで、両方の両親の家の中間地点で、会社のあった四ツ谷にも便がよい所ということで、大宮、川越周辺を探すことにした。試しにいくつかの不動産屋に顔を出しているうちに、同じ物件を案内されるようになり、この時期だと、物件はある程度限られてくることがわかってきた。悲惨だったのは地盤が悪い家で、傾いたり壁にひびが入っていたりするので、更地にしないと売れず、そうなると解体費が別途かかることになるので、そういう物件だけは掴(つか)まされないようにと、地盤図を取り寄せ洪水実績がないかなどを調べ、田んぼや低地だけは避けようと思った。結局、住まいは、間もなく有楽町線が乗り入れるとの情報を聞き、麹町まで乗り換えなしで行ける川越に絞ることにした。朝の混み具合を確認しに、試しに西東京から川越まで出向き、東上線に乗り池袋まで座って通勤できるか見に行ったこともあった。次に、川越のどこにするかということだったが、駅から近い、スーパーが近く買い物がしやすい、学校も歩いて数分という場所は値段が釣り合わず、何かの条件を緩和しない限り家を建てることは現実的に無理ということがわかった。思案の末、駅からバスで10分ほどかかるし、スーパーや学校に近いとはいえなかったが、車を使えば何とかなるし、日当たりもまあまあで40坪くらいが確保でき、ローンも払えそうな現在住んでいる場所を選んだ。学校までは子供の足で30分近くかかったが、考え方によっては、自然と足も鍛えられると前向きに考えることとした。注文建築で、間取りは自由に設計できたので、4DKの2階建てにし、1階はキッチンと居間、2階は我々夫婦と3男の部屋(6畳と3畳の書斎)と、8畳を仕切って長男と次男の部屋にした。当初、クーラーは我々の部屋に、親戚から貰った窓枠にはめ込むタイプのものしかなかったので、雑魚寝(ざこね)状態ではあったが、夏場は、5人で一部屋に寝るようにしていた。

 家を建ててから8年ほど経った頃、筑波に転勤で単身赴任となり、取手に2DKのアパートを借り2年間暮らした。駅から歩いて5分ほどの利根川べりのアパートで、常磐線の音がよく聞こえた。慣れない一人暮らしであったが、実際は、東京の本社に行く機会も少なくなかったので、川越の家と半々ぐらいの生活であった。丁度、その頃、長男が大学に入り、3男も大きくなり一人部屋がほしいということもあり、2部屋建て増しすることにした。それで、家の広さは6DKになった。しばらくして、最初に所帯を持った長男が近くに家を建てた。続いて、3男、次男も結婚し巣立っていったが、丁度その頃、60歳の定年に差し掛かっており、一時、転居を考えたことがあった。定年になれば通勤のことは考える必要はなくなるので、さらに年を取ることを考えると、医者が近くにあるとか、もっと、都心に近い便利な場所に引っ越してはどうかと思ったのである。しかし、何が幸せかと考えた場合、いくら便利な所でも肉親が遠くにいたのでは会うことも容易ではない。孫に会える楽しみも半減する。思えば、いくら都会の駅に近くて便利で、日当たりが良い場所に住み替えたとしても、所詮、家は箱に過ぎない。それで、家族のコミュニティーが壊れたのでは元も子もない。それに比較し、多少不便でも、子供たちが近くにいるということは、じじばばを当てにして近くに居を構えるという面もあるかもしれないが、何ものにも変えがたい幸運なことであるのは確かである。そんなことを色々考えた末、住居を移すのはやめ、老後に備えてリフォームすることにした。

 家は生活するためのもので、言うまでもなく見栄を張るためのものではない。だから、年取ったら必要以上の大きな住まいはいらない。そして、できるだけコンパクトで合理的で使いやすい方がよい。その方が、掃除にも手間を要さない。リフォームをするにあたり、老後を考えて、普段の生活は一階のワンフロアーで暮らせるようにすることにし、それまでの掘り炬燵(ごたつ)の生活から椅子の生活に切り替えることにした。増築した子供部屋を無くし、その分、リビングを広くし、襖(ふすま)を取っ払えば、いざとなったら人寄せができるようにした。実際、一族郎党総勢30名前後の親戚が正月に何回か集まったこともあった。また、生活する上での機能性を考え、食う、寝る、出す、ほぐすが5歩圏内に収まるよう動線を考え、リビング(ダイニング一体)、寝室、トイレ、風呂をレイアウトした。2階は、子供たちが切り分けて使っていた部屋を、自分の書斎と女房が趣味の着付けが可能な和室の2部屋と納戸にした。リフォームをして気付いたが、図面はあることはあるが、ほぼぶっつけ大工のところがあり、天井を開けてみて、構造的に弱点ができないように梁を通すように押し入れの開口部の位置を変えたりして、その場で臨機応変にすることも多く、大工の能力が要求されるものだと痛感した。

 これまで何回か住まいを変えたが、今にして思うことは、家は大事だが、充実した人生を歩む上で、一義的なものではなく、やはり、所詮、生活を営む上での囲いに過ぎないということである。だから、さしたる理由もなしに、やたらめったら住居を変えるのはどうかと思う。高度成長期に流行ったように利殖のために転居を繰り返すというのも如何なものかと思う。住まいは必要に迫られて変えるのが自然であり、家族の構成、諸事情に鑑み、合理性からそのとき考え得る最善の策を講じるのが順当のように思う。肝心なのは、家族それぞれにとって希望が持て、夢が描ける住まいであるかということだと思う。

 


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。