子育ては夫婦にとって一大事業といえる。親は、子供を何とか社会生活を営める一人前の人間に育てようと心血を注ぐものである。自分たちの場合も、今から思えば夢を見させてもらい楽しかった面もあったかもしれないが、子育ての最中は無我夢中で、色々試行錯誤の末3人の子供を育ててきたというのが実際である。今は、その子が自分にとっては孫にあたる子を育てているが、子育ての当事者ではないので距離をおいて観察することができ、客観的にかつ冷静に子育てを捉えることも可能となった。自分たちが一通り通った道なので、その経験をなぞれば、子に期待する親の気持ちやそれに対する子供の反応についても大方察しが付くものである。
子供ができ出産する間際までは、「五体満足であればよい、健康でありさえすればよい」と多くを望まないが、時が経つにつれ、子供の成長と共に徐々に親の欲が出てくるものである。近所の同じ頃に生まれた子供と比較し、立ち上がったり、しゃべり始めたりする時期に少しでも差があるだけで一喜一憂する。成長が早いと喜んで優越感に浸るが、遅れていると思うとすぐに心配になる。子供が幼稚園に入る頃になると、文武両道を目指して図に示すような色々な習い事をさせるようになる。スポーツとしては水泳、野球、サッカー、剣道、体操、バレー、音楽としてはピアノ、バイオリン、その他に絵画、習字などを習わせる場合もある。これらの習い事をする際には、教室や練習の送り迎え、大会や発表会は当番制で面倒を見る必要があるので親の労力も大変であるが、親としては何とか我が子の才能のかけらを探そうと必死になる。自分の子が他の子より足が速かったり身のこなしが素早かったり、音楽に敏感に反応し楽譜を諳(そら)んじるのが早かったりすると、親の欲目なのか、直ぐ天賦の才能があるのではないかと錯覚する。人によっては、自分の果たせなかった夢を子供に託そうとする者も出てくる。あわよくば、プロになれるのではと期待する親もいるかもしれない。しかし、やがて、小学校、中学校と進級するに従い、上には上がいて、自分の子は特別優れているわけではなく普通の子であることが分かるようになるというのが現実である。親としては子供には無限の可能性があるように思うが、本当のところはそういうわけにはいかず、無意識的かもしれないが、生まれながらの遺伝とか育った環境とかにより、知らず知らずのうちに制約を受けており、伸び代(しろ)も自ずと限界があるものである。年を重ねるに従い可能性は狭められ、選択肢は少なくなってくるのは必然である。自分たちの場合も、「チャンスだけはできるだけ色々与える」という方針のもと色々な習い事をさせたが、好きになれば上達するのかもしれないが、子供にはそれぞれ向き不向きがあるもので、尻をひっぱたいてやらせてもどうにもならない場合もあることもわかった。
小学校も高学年になってくると、子育ても現実的なものが中心になってくる。自分は、小中高と公立の学校へ行ったので、子供たちも当然公立に行けばよいと思っていたが、30代の後半、話し方教室へ通っていたとき、その講師の話を聞き考え方が変わった。その講師の話は「日本の6・3・3・4制の教育制度を見ると、大学入試は既に自ら自分の進路を決めることができるのでかまわないが、心身共に未成熟で吸収力も大きい中学時代に高校へ入るために学生生活の大半を受験勉強に費やすのはもったいないことで、それよりも中学受験し中高一貫校へ入った方が、6年間充実した学生生活を送ることができる」という趣旨の内容だった。なるほど、それも一理あるなと思い、横浜で中高一貫校を出た女房と相談した結果、神奈川県では中学受験は昔から珍しいことではなくそれなりに楽しい学園生活を送れたということだったので、急遽、中学受験をさせてみることにした。色々、情報を収集すると、中学受験を専門とする予備校があることがわかり、その一つに通わせることにした。予備校は大概夜18時頃から21時頃までで、当時は家の近くに教室がなかったので、電車に乗り通学する必要があった。小学校の授業終了後、急いで小学校へ車で迎えに行き最寄り駅まで送り、帰宅時には駅まで車で迎えに行く必要があり、女房の労力は大変なものがあったと思う。複数校受験したが、受験の際には、下見、願書提出、本番、結果発表と、少なくとも一校に付き3~4回赴(おもむ)く必要があり、結構、手間を要するものだった。中学受験を思い立ったとき、長男は既に6年生だったので、十分、勉強する時間がなく公立の中学へ行ったが、次男三男は何とか中高一貫校に入ることができ、そこで6年間過ごした。振り返って、中高一貫校へ行かせたことが良かったかどうかは、人生が一回性である以上比較することはできないわけであるが、2人とも友人もできそれなりに楽しく充実した学生生活を送ったようであった。
子育てを考える場合、習い事や勉学とは別に、躾(しつけ)というものがあると思う。スポーツや音楽の腕前を上達させるとか学業の成績を上げるとかいうこととは別に、もっと社会生活を営む上で基本となるようなことを教えることが重要のように思う。躾(しつけ)というと狭義には礼儀作法みたいなものが思い浮かぶが、もっと広い意味の人として必要な行動様式を植え付けるような家庭教育が大事であるように思う。かといって、世渡り上手になるための処世術を教えるのではなく、自立して生きていく力、親がいなくなっても生きていける力を培わせることが親の役目だと思う。いくらスポーツや音楽に秀(ひい)で、あるいは成績優秀者であっても、親の敷いた路線しか歩むことができないのでは、何か思いがけない事象が発生したとき、つまずき脱線してしまい、立ち直ることができず、いつか破綻(はたん)してしまうのではないだろうか。ならば、そういう自立心を養うために親は何ができるかということであるが、それは、いちいち指示するのではなく、一言で言えば、毅然(きぜん)として背中を見せて、何事も自分で決めさせることだと思う。家訓みたいものがなくても、子供は知らず知らずのうちに親の一挙手一投足を見ているもので、そこから何をしてはダメで何が尊ばれる行為かを感じ取るものである。まさに、環境が人を育てるのである。社会人になれば、何をやるにしても障壁はあるもので、それにぶつかったときに、自分が決めたことならば辛抱が利くので、やがて何とか困難を克服できるものである。
大学受験に際し、親としては子供の将来を考え、学ぶ内容よりも、世間体の良い人から羨(うらや)ましがられる、いわゆる名の知れ渡った有名校に入ることを切望するものだが、自分の子供たちの場合は、3人とも、大学に行くに際して、どこの大学に行くかではなく、将来やりたいこと、職業にしたいことを考えさせ学部を決め、その学部のある大学を選ばせることにした。その結果、長男は福祉系の学部に進み福祉関係の仕事に就いた。次男は機械系の学部に進学し医療機器を扱う会社に就職した。何かを企画することが好きだった三男は社会系の学部に行きイベントを扱う企業に就職した。けして筋書き通りに育ったというわけではないかもしれないが、それぞれに適性に合っている仕事に就いてよかったと思っている。子供は親の分身というが、自分としては、長年親しんだボーイスカウトのボランティア精神が長男に、職業として選んだエンジニアの仕事ぶりが次男に、既成に囚われない新しい物好きだった性格が三男に影響したのかと勝手に思っている。今のところ、3人とも何とか職種も勤め先も変わらずに過ごしている。余談になるが、お相手も、いつのまにかそれぞれお似合いの人を見つけてきて所帯を持ち、それぞれ二人の子持ちになり、家庭も円満のようである。振り返ると、曲がりなりにも3人の子供を育てたわけであるが、今、子育ての要諦(ようてい)は何かと問われても、確(しか)と返答するのは難しい。ただし、経験から言えることは、チャンスは与えるものの指示はせず自主性に任せ、後は、子供の信頼に足る姿、振る舞い方を、日常から心掛けるということなのではないだろうか。
子供が成人し一人前になれば、親の出番は一切なくなるかと思いきや、子育てとは言わないかもしれないが、まだまだ、お役御免というわけにもいかない気がする。健康のこと、家族のこと、仕事のことなど、子供に関しての心配事は尽きない。実母が80代だった頃、姉が癌で亡くなったとき、しみじみ、「一度親になったら死ぬまで親」と言っていたが、この年になって、その意味がわかるような気がしている。子供にとって無償の愛を与えてくれるのは親しかいないわけで、いつまでも、相談相手になるだけの物心両面で頼りがいのある親でいたいと願っている。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。