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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

29.車に歴史あり-家族の変遷とともに-

 これまで、表に示すように、50年余り色々な車に乗ってきた。車が趣味というわけではなく、その時々の必要に迫られ、家族構成など置かれた状況にあった車を選択してきた。よく、目の前を通り過ぎる車を見て、即座に車種を当てて見せたり、年中、車を掃除しピカピカにしたりしている人を見かけるが、自分は全く正反対で、近所の人から、遠慮がちに「余り、構わない方ですね」と言われるくらい、車に関しては無頓着(むとんちゃく)で、大事に扱ってこなかった。それでも、自分にとって、車は、やはり必需品で、日常の買い物、駅への送り迎え、病院通い、親の介護、ゴルフや行楽など大変世話になったのは事実であり、それなりに思い出もある。

社史関連エッセイ挿図29


 大学に入って早々、免許を取りに学校近くの教習所に通った。教官は、その都度、変わるわけであるが、随分、当たり外れがあると思った。一度、教官の指示で、教習時間一杯、壁に取り付けられていたハンドルを回しているだけのことがあった。少々、頭にきて不機嫌な顔をしていると、それを見て取った教官が、一度、押しかかった印鑑を引っ込めたため、その日の進捗がゼロになってしまった。高い金を払っているのに、その態度はないと、憤懣(ふんまん)やるかたない思いだった。教習所の教官というのは、やりたくてやっているわけではなく、他によい仕事がなくて、嫌々、やっているように思えた。二度と、その教官には当たらないことを願ったのを覚えている。

 母親が40歳過ぎてから車の免許を取った。その頃、4人の子供の内、3人が大学生で、おそらく子供の学費を稼ぐためだったのであろう、伯母が勤める浅草の洋品店の仕立ての仕事をしていた。初め母1人で風呂敷包みを担いで浅草まで往復していたが、そのうち、近所の主婦の何人かに声をかけ手伝ってもらうようになり、職業用のミシンも購入し、母はその元締めみたいことをやるようになった。仕立てる量が多くなり、人力で服を運搬するのは無理ということになり、車で運ぶことに考えが及び、免許を取ろうと思ったようであった。ある程度、荷物が積めて用が足せればよいということで、オプションのほとんどつかないシンプルなブルーバードの2ドアスタンダードを購入した。その頃、近所の同年輩の主婦で車に乗る人が数人いて、その人たちと「轍(わだち)会」なる会を立ち上げ、珍しいというのでテレビに出たこともあった。自分も免許をとると、母親を手伝って浅草まで服を運搬したことも何回かあった。

 大学は地方出身者が多く、当然、車を持っていなかった。自分のように、自宅通いで車があるとなると、何かと引っ張り出された。入っていたクラブ(ローバース部:ボーイスカウトの青年部)のキャンプに行くための買い出しなどもよくやった。新宿で飲み会があり、酔いつぶれてしまった友人を、車が汚れるからとタクシーに断られたので、やむなく、自宅のあった西東京から新宿駅東口まで母親に車で迎えに来てもらい、家まで友人を連れて帰ったこともあった。学園祭で、50キロや100キロハイクというものを企画実行したことがあったが、その距離計測は自分のブルーバードでやり、本番のときも、先導車を務めた。大学時代、スピード違反はしたことがなかったが、駐車違反は何回かした。高校のテニス仲間で友人宅に集まった際、少しぐらいなら大丈夫だろうと、うっかり、真向かいの家の玄関を塞(ふさ)いで車を駐(と)めてしまい、確か「貴乃花と輪島」の大相撲に夢中になっていて気づかず、警察に通報されたこともあった。

 就職し、初めは独身寮から会社まで自転車で通っていたが、ほとんどの先輩が車を持っていたので、車が欲しくなり、小中学校の友人からスバル1000を確か8万円で譲り受けた。今では、考えられないが、寒くなると、時々、エンジンがかからなくなり、エンジンからプラグを外してヤスリでよく磨いていた。1,2年間、通勤が主で乗っていたが、出勤の際、タイムカードを押そうと職場の玄関に急いで向かっていたとき、同じように急いでいた同僚の車と、お互い、相手が止まるだろうと思っていて衝突し、お釈迦となった。直そうと思ったが、修理代の方が購入費よりも高くなるというので、保険金だけ受け取って、しばらく、自家用車は持たなかった。その間は、当時、海外出張の先輩が多かったので、留守中の先輩の車を代わる代わる借りていたが、それで十分事足りていた。

 次に車を手にしたのは、結婚し鶴ヶ島に居を構えたときであった。東松山にあった会社までの通勤用に、360ccのスズキのフロンテを、女房の親戚が中古車販売をしていたので、その口利きで購入した。しかし、1年位で本社転勤になり、通勤には必要なくなったので、もっぱら買い物専用に使っていた。西東京の実家に引っ越してからは、親と同居していたこともあり、軽自動車では家族全員が乗れないので、中学校以来の友人がトヨタの代理店に勤めていて、丁度、出物があるというので普通車のカローラを購入することにした。本社は四ツ谷にあったので、中央線1本で行ける三鷹や武蔵境まで女房によく送迎してもらっていた。川越に越してからも、そのカローラにしばらく乗っていた。自分が通勤の折、駅まで送り迎えしてもらうだけでなく、子供たちも学校や塾に遅れそうになると、女房に送ってもらっていた。女房は、1日の内に自宅と駅との間を何往復もしていたのでないだろうか。やがて、故障するようになり、錆びて、雨が降ると、トランクが水浸(みずびた)しになり、中に入っているものがびしょびしょになるようになった。入れっぱなしにしていたゴルフバックも水に浸かり、ウッドクラブをダメにしたこともあった。大事に至らなかったが、走っている最中に、タイヤが外れたりしたこともあった。駅に停車しているときに急にラジエターから液が漏れだすなど、トラブルが相次ぎ、何だかんだ10年ほど乗ったので、そろそろ、取り替えなければならないと考えるようになっていた。

 丁度、その頃、入社15年目を過ぎて、10日前後の有給休暇がとれるとのことで、夏休みを利用し北海道に車で旅行に行こうということになった。それには、家族5人と寝泊まり用の荷物が積めるワゴン車が必要ということで探していたところ、友人の伝手(つて)で、トヨタの8人乗りのタウンエースの中古車が見つかった。初め、車検証が違う人の名義になっているなど小トラブルはあったが、何とか出発の日までに入手することができた。後部座席に棚を作り、テント、寝袋、炊事道具などのキャンプ用品を詰め込み出発した。往路は、青森まで女房と運転を交代しながら行き、そこから函館までは連絡船で渡った。道内の経路は、襟裳岬から釧路を通り、道東の野付半島で折り返し、層雲峡で黒岳に登り、札幌、小樽を経て岩内に至るというものであった。オールテント生活で1日200~300キロ走った。岩内からはフェリーで新潟の直江津まで移動し、そこから、北陸自動車道、関越自動車道を走って、自宅のある川越に帰ってきた。約2週間の旅であった。2年おいて、今度は入社20周年ということで、休暇と若干の祝い金が出たので、それを利用し、中国地方、九州、四国へもキャラバンで回った。大勢乗れるというので、関東近郊の会社の保養施設や温泉場に、何度か両親や親戚を連れて行ったこともあった。しかし、6年前後経ってくると、雪の日の朝、中学受験の子供を駅で降ろした後、ドアを閉めようとすると外れて落ちてしまうなど、徐々に調子が悪くなり始め、替えざるを得なくなってきた。

 それまで手にした車は全て中古車であったが、40代の終わりに来て、初めて新車を手にすることになった。家族5人と両親も乗れるようにと、近所にホンダに勤めている人がいて、その紹介で7人乗りのオデッセイを買うことにした。経済的に余裕があったわけではなかったが、後先考えずに、頭金なしのオールローンで買った。この車に乗っている間に3人の子供が免許を取り、順番に慣らし運転に使用していた。お互いの両親も70~80代になったこともあり、医者に連れて行くことも多くなった。結局、この車は何やかんや10年間乗ったが、ローンが終わる頃、20万キロ乗ったあたりで、時々エンジンが調子悪くなるようになり、そろそろ寿命が来たようで乗り換えることにした。

 その頃になると、息子たちもそれぞれ自分の車を持つようになったので、もう大勢で乗ることもないだろうと、次は、5人乗りの普通自動車にすることにした。子供も学校を終え、経済的に楽になったこともあり、その頃、売り出し中だった、ハイブリットカーのプリウスを思い切って買うことにした。10周年ということで、キャンペーンをやっていて、そのとき限定の薄いブルー系統の色の車にした。オデッセイのときは燃費が8キロ/リットル程度であったが、流石にハイブリッド車は30キロ/リットル近く走り、経済的ではあった。5,6年経ち、距離数も4,5万キロに達した頃、同じプリウスでも、電気自動車が出たというのでディーラーが買い替えを勧めてきた。プリウスPHVであった。充電用に200V用の電源が必要とのことであったが、丁度、家のリフォームと同時期だったので、電気自動車はどんな走り心地か興味があり、買い替えることにした。乗り始めてみると、電気自動車といっても電気で走るのは15キロ程度で、その後は通常のハイブリット仕様のプリウスと変わらなかった。その後、盛んにディーラーが買い替え案を持ってきたが、もともと車が趣味というわけではなく、車は見栄を張る道具ではないので足になればよいのだからと、乗り潰すつもりで、既に、10年余りその車を愛用している。

 振り返ると、これまで主に家族構成の変遷とともに、色々な車を乗り換えてきた。その時々の車を思い浮かべると、その頃の家族の出来事が蘇(よみがえ)ってくる。まさに、「車に歴史あり」といったところであろうか。これまで、駐車違反やスピード違反でネズミ取りに引っかかったこともあったが、幸運にも、さしたる事故も起こさず、現在に至っている。しかし、加齢とともに運動神経が衰え注意力散漫(さんまん)になるのは如何ともしがたいことである。まだ、親が健在なので子供としての役目もあり車の出番はあるが、遠くない将来、車を手放さざるを得ないことは確実である。そのときに備えて、今から、医者などは車でなくても行ける所に変えるように心掛けている。

 


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』など。