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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

32.時間の有効活用-メリハリある生活のために-

 現役時代の生活パターンを振り返ると、仕事を効率よく進めたり、やりたいことを実現したりするために、いかに時間を生み出すかということに躍起(やっき)になっていたように思う。今は、コロナの流行をきっかけにテレワークみたいなものが普及しつつあるが、自分が現役の時代は、会社に赴(おもむ)き、そこで仕事をするのが当たり前であった。表は、就職してから現在に至るまでの時間の使い方を大まかに示したものである。

社史関連エッセイ挿図32


 就職し東松山の寮にいた頃は、会社まで自転車で20~30分で行けたので、ほとんど寮と会社を往復するだけで1日が過ぎて行った。入社してから2年間ぐらいは、外へ出るのは、現場出張を除けば、組合の会議で本社に行くくらいであった。組合の会議は、本社で就業時間後に開催されたので、その時間に間に合うように会社を早退し東上線で池袋まで行き地下鉄に乗り換え1時間半ぐらいかけて本社のあった内幸町まで通った。会議は21時過ぎまで行われたので、寮に帰りつくのはいつも23時近くになっていた。当時の東上線は、まだローカル色が強く、車内で酒を飲むだけでなく、驚いたことに車両間で用を足す人がいたり、網棚に載せた荷物を危うく見知らぬ人に持っていかれそうになったりしたこともあった。入社3年目になり組合が一段落すると、仕事を終えた土曜日の午後は、仏語を習いに行ったり、ギター教室に通ったりするなど、1時間半かけて都内に出かけていた。

 結婚してからまもなく本社に転勤になり、住んでいた借上げ社宅のあった鶴ヶ島から1時間半かけて職場のあった御茶ノ水まで通うことになった。丸々1時間以上電車に乗るので、座れるかどうかが重要で一つ前の駅まで逆方向に戻って座ったり、いつも同じ車両に乗る人が決まっていて、どこで降りるかもわかっていたので、その人の前に立ったりしたこともあった。

 しばらくして田無(現西東京)へ引っ越してからは、自宅から会社までdoor(ドア) to(トウー) door(ドア)で1時間以内に行けたので、通勤は楽になった。西武線の田無駅まで歩いたこともあったが、職場が四ツ谷になったので、中央線の武蔵境まで自転車やバスで行ったり、急行の停まる三鷹駅までよく女房に送迎してもらったりしていた。いずれの経路でも、乗車時間は30~40分程度あったので、その間を利用し、車内で資格試験の勉強をよくしていた。当時は、その教材で鞄(かばん)ははちきれんばかりであったと思う。本社に転勤してからは仕事が忙しく、20時過ぎまで残業するのは日常茶飯事で、下請けの会社、現場事務所、残業用の借上げアパートなど場所を変えて、1週間に1度ぐらいは徹夜もしていた。その一方で、仕事のストレス解消の意味もあったのか、会社の近くの居酒屋によく飲みにも行った。二次会に行くと帰りは24時近くになり、電車が無くなったときは夜中にタクシーで帰宅することもあった。そんな忙しい毎日であったが、この時期、同時並行的に色々な専門資格に挑戦していた。飲んで帰らない日は、帰宅後1時頃まで机に向かっていたこともあった。その頃、川喜田二郎の提唱していた「情報カード」を知り、会社に向かう電車の中で、「Day plan」と称し、その日の仕事の時間割を作成したり、帰りの電車の中では、その日に遭遇した出来事の感想を殴り書きしたりしていた。しかし、この猛烈な生活パターンが身体の歪となって現れ、36歳のとき急性肺炎になってしまった。以後、生活パターンを変えざる得なくなり、残業も飲み会も激変し、午前様になるような飲み方はしなくなった。それでも体調が戻ると、性懲りもなく、就業時間後に話し方教室や近くのカルチャーセンターに小説作法を学びに行ったりしていた。

 30代の終わりに川越に家を建て引っ越した。再び通勤時間は長くなったが、車内の時間の使い方もわかっていたので、業務レポートや学会誌への報文などの書き物をよくしていた。丁度、博士へ挑戦していたのもこの頃であった。何かの構想を練ったり、物事を考えたりするのに、移動中の車内とか、雑踏の中の方が意外と集中できるということも、経験上わかっていたので、車内だけでなくファミレスなどでもよく文章を書いていた。山手線の車内で、前に立った見知らぬ人が、吊革につかまりながらまじまじとこちらを見つめて、「凄(すご)い」と声を上げ感心されたこともあった。極秘文書の作成や試験用紙の採点などは誰が見ているかわからない車内でするわけにはいかないので、資格試験の試験委員になったときには、採点の締め切りまで時間がなかったので、大阪までの出張中に新幹線の中で個室を借りて答案の採点をしたこともあった。書くことに夢中で、降りる駅を乗り越すことはほとんどなかったが、いくつかハプニングも経験した。東上線の中で、混んだ車内にいた女の子が押し出され膝にすっぽり乗っかってきたり、書き物をしていた右肘が隣の女性の肩が触れたらしく痴漢と間違われたようで過剰反応されたり、突然、前に立った人の網棚の荷物が落ちてきて眼鏡を壊されたりしたこともあった。

 学位を取得したのがきっかけとなり、筑波には2度転勤になった。40代半ばの初めのときは単身赴任であったが、50代前半の2度目のときは、本社に行く頻度も高くなったので、二重生活はとかく不便と思い、自宅から筑波まで2時間半近くかけて通った。往復すると通勤電車の中に居る時間が5時間近くになり、1日の生活の中で馬鹿にならない時間なので、本も読んだが書き物もよくした。その頃は、既にパソコンが普及しており、手書きでなくワープロで文章を打つのが当たり前になっていた。初めに自宅でワープロを打って行きの電車でチェックし、会社でそれをパソコンで修正し、帰りの電車で再度それをチェックし、さらに、自宅のパソコンでそれを修正するということを繰り返すようにして、レポートを仕上げるのが手っ取り早く、文章作成の常套(じょうとう)手段と心得ていた。通勤電車をまるで「動く書斎」のように利用していたことになる。仕事とは別に、ウィークデイの17時以降や土曜の丸1日を使って、MBAの学校に通ったのもこの時期であった。授業は21時以降まであったので、帰宅は23時近くになることも多かった。

 振り返れば、現役時代は、仕事だけでなく、資格取得や色々な習い事など自分のやりたいことをするために、通勤時間を有効活用するなどして、何とかそれらを実現できる時間を生み出してきた。ところが、退職後、生活パターンは一変した。城山三郎のベストセラー小説『毎日が日曜日』ではないが、時間に追われる生活からは解放され、それとは逆に、ともすると、無為に時間だけが過ぎていきかねないような生活環境が訪れた。そんなシニアのおかれた環境を半ば揶揄(やゆ)するように、「シニアには教養(キョウヨウ)と教育(キョウイク)が必要」とよく言われるが、まさに「今日用事あることと、今日行く所があること」がシニアになると大事になってくるように感じる。翻(ひるがえ)って自分のことを考えると、確かに会社に通勤したように毎日決まって出かけることはなくなったが、それに代わってというわけではないが、退職して家族サービスの頻度は増した。孫が幼稚園や小学校低学年の頃は、病気のときに預かったり、習い事に送迎したりすることが、いつのまにか祖父としての仕事になっていた。女房と行動を共にすることも多くなった。買い物や、内科、眼科、歯科などの医者通いもそうであるが、埼玉県主催の「いきがい大学」に一緒に入学した関係上、卒業後もハイキングやオカリナ(ギター伴奏)などで、平均すると週に1回以上は同期の仲間と一緒に会うようになった。

 そういうわけで、今のところ、暇を持て余しているということはないが、そうはいっても、これから年を重ねるに従い身体も衰えてくるので、相当意識的に動かないと、何かをしたり何処かに出かけたりすることが、だんだんと億劫(おっくう)になってくるに違いないと思う。自分の場合、対応策として、現役時代もそうであったが、5年程度先も記入可能な年間スケジュール表を、年末に作成することにしている。取りあえず、やりたいことを思いついたら、そこにtake(テイク) note(ノート)するようにしている。記載するにあたり、やみくもに書いても収拾がつかないので、クリエーター、家庭人、専門家の3つの立場に立って、やりたいことを記入している。クリエーターとしては、何か新しいことをインプットするための異文化体験とか、アウトプットとしての執筆活動などの思惑(おもわく)を記入している。家庭人としては、健康、運動、蓄財、娯楽、住居などの項目ごとに、予定や行動を起こしたいことを記入している。家族とも関係してくるので、女房、親、子供や孫の年齢も併記している。専門家としては、自己研鑽のための専門誌の購読や講演会などの予定を記載している。もちろん、これらの記載された事項の大半は直ぐには実現しないわけであるが、それに懲りずに、何年かそれを文字にして先送りしていると、どういう風の吹き回しか、いつのまにか運が巡ってきて、念願がかなうということは、これまでの経験からいっても少なからずあるものである。

 このようなやり方がいつまで続けられるかわからないが、年をとってもメリハリの利いた生活を維持し、残された時間をできるだけ有効に活用し、より充実して生きるための、備忘録の役目は果たしているのではないかと考えている。



 


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。