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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

33.老いの覚悟-認知症と介護-

 親が年と共に衰え認知症になり、やがて別れのときが来るのは、人の世の必然で誰しも遭遇することである。介護は子供としての義務であるが、これまで、自分の両親、女房の両親と、老いを身近に見てきた。表に示すように、全員、時期や程度の差はあるが認知症になり、現在、実母は健在であるが、実父、義父、義母と、年齢の順に他界していった。

社史関連エッセイ挿図32

 実父は小学校の教員をしていて、60歳の定年後も最後に勤めていた学校のあった文京区の教育史の編纂に携わったり、住んでいた地域の教育委員などをしたりしていて、運動会などの行事には呼び出され、喜んで顔を出していた。実母とは年齢が7つ違い、男女の差もあるので、年を取るに従い、実母は山仲間とアルプスの山へ泊りがけで出かけていたのに対し、実父は駅の階段を上り下りするのがやっとというくらい、体力の差も顕著になって、旅行など一緒に行動することができなくなっていった。実父はこれといった趣味があるわけではなかったので、母が出かけていないときは、一人ポツンと炬燵(こたつ)に入り、一日中、テレビを観ていたようだった。仕事人間で近所づきあいもしておらず、地域の老人会から催し物の誘いがあっても、プライドが高く馬鹿にして行かなかった。家にいるだけでは塞ぎこむだろうと、実母が泊りがけで山に出かけているときは、よく、家で預かって、車であちこちに連れて行ったりしていた。認知症の兆候が出始めたのは、70代の半ば過ぎだったと思う。外へ出ていて、タクシーで自宅に帰る際に、自宅のある所をうまく説明できなくなったのが始まりだった。退職者の集まりに女房が心配して付き添いで行ったときも、本人は誰も来ないのでお冠(かんむり)であったようだが、その実、日付が間違っていたということもあった。誰も寝ていないのに、布団に誰かが寝ているとか、部屋の柱が傾いていると言って、柱にガムテームを貼り付けたりしていたこともあった。今から思うと、認知症の中の、見えるはずのないものが見える幻視という症状の出るレビー小体型認知症という部類だった気がする。心配して、認知症外来のある病院に連れて行こうとした車の中で脳梗塞を起こし、食べ物を飲み込むことができなくなり、入院し点滴だけで生きていたが、3ヵ月後に亡くなった。80歳であった。

 義父は実父よりも1歳年下で、職業軍人であったこともあり足が達者で、現役時代は、埼玉の田舎から都心まで、2時間以上かけて電車で通勤していた。60歳で退職した後も、バイクを30分近く運転し、近傍の第2の職場まで仕事をしに行っていた。実父と違って家に閉じこもっていたわけではなく、住んでいた街が主催していた老年大学に通ったり、趣味で野仏などを撮りに出かけたりしていた。しかし、80歳を過ぎたあたりから認知症が出始め、途端に、普段身ぎれいにしていたのが、ジャージのまま外へ出かけようとするなど、身なりに構わなくなった。よく徘徊するようになり、警備会社に頼んでGPS付きのタイを購入したりしたが、肝心なときにそれをつけずに出かけてしまったり、運よく身につけていた場合でも、今度は、義母が携帯を使えなかったため、警備会社から逐次居場所が連絡されてきても、それを追跡できなかったりで、思うようにはいかなかった。何度か行方不明になって、警察から連絡が来て保護されているのを迎えに行ったり、著しいときは、自宅の10キロ近く先でうずくまっているのがわかったりしたこともあった。親戚を誘って旅行に一緒に行ったときも、好きだったカメラの撮り方を、もはや忘れてしまっていたようであった。認知が徐々に進み下の世話も必要となったため、部屋に介護用のベッドを持ち込み、義母が面倒を見ることになり、女房も毎日のように手伝いに行っていたが、とても面倒見切れないということで、施設(グループホーム)に入ることになった。すると、1カ月も経たないうちに体調を崩し入院することになり、検査の結果、肝臓がんであることがわかり、それから2ヵ月後、病院で息を引き取った。84歳であった。

  義母は、義父が亡くなってから畑などをやりながら一人で暮らしていた。社交的な面もあって、地域で開催していたカラオケや絵手紙の教室などに通っていた。女房も定期的に顔を出し、様子を見に行ったり、買い物や医者に連れて行ったりしていた。しかし、80代後半になると、次第に物忘れがひどくなりはじめ、薬の服用を間違えたり、夜中に、時間を間違えて電話したりしてくるようになり、次第に、一人住まいは難しくなってきた。同居も考えたが、本人も認知が進んでいることを自覚しているようで、施設に入ると言い出し、88歳のとき、有料老人ホームに入居した。入った当初は、新聞やテレビを見ることができたが、徐々に認知症が進み、同じことを繰り返して言ったり、肉親の名前を間違えたりするようになってきた。懐かしむと思い、長年住み慣れた実家に連れて行ったこともあったが、もはや、実家と認識することはできなくなっていた。8年間施設にいて、最後は自宅に連れてきて女房が面倒を見たが、1カ月ほどで永眠した。

  実母は、実父が他界してから約20年間一人で暮らし、その間、山登り、カラオケ、詩吟、ゲートボールなど、持ち前の好奇心のおもむくままに、色々なことをやり、友人も多かった。認知症のかかり始めは、少し忘れっぽくなったかと思われる程度で、ガスコンロの火がつけっぱなしで鍋を焦がしたりすることはあったが、一人で食事の支度もできた。介護認定も受けていたが要介護でなく要支援で、家事もトイレもできたので、清掃のためにヘルパーに来てもらう程度であった。ところが、95歳の年の冬場に、帯状疱疹を患(わずら)ってから状況が一変した。四六時中痛みがひどく、内科だけでなくペインクリニックにも通い、痛み止めの注射を打たなくては収まらない状態になった。薬を服用しても2、3時間しか効かず、夜中もよく眠れない状態になった。とても一人では置いておけないので、兄弟が代わる代わるに泊まって、食事や服用などの面倒を見ることになった。しかし、年中、起こされほぼ徹夜状態なので、3、4泊が限度で、そんな生活を2、3ヶ月続けるうちに、介護する方も心身ともに消耗し、自分の生活のリズムも変調をきたすようになっていった。負担が増すにつれ、公平感の問題で、兄弟間の関係もぎくしゃくし始めてきた。担当のケアマネは不慣れで、言われたことはやるのだが、自分から解決のための方策は提案してこなかった。そんな状態を見ていた地域包括支援センターの社会福祉士の方から、何もかも家族でやろうとせず、もっとプロの力を活用すべきとの示唆があり、知人からも「介護はプロに任せて家族は愛情を」というアドバイスをもらった。介護の技術的なことはプロに任せて、肉親は疲れない範囲でやれることをやれよいという趣旨であった。そうこうするうちに、やっと母親の痛みも和らぎ始めたので、かかりつけ医に相談したところ、夜、一人で置いておいても大丈夫との返答を得たので、ノルマのように泊まるのはやめにし、その代り、ショートステイやデイサービスを最大限に活用し、朝夕の見守りと食事のためのヘルパーを入れることにした。同時に、監視のためのカメラを居間とリビングに設置することにした。それでも、カメラで見ているだけでは心配なので、兄弟で手分けして週に1回は様子を見に行くことにした。

 3、4カ月、そんな状態を続けたが、カメラで監視するのも、なかなか気が休まらないもので、いつまでもこういう状態を続けるわけにもいかないし、ヘルパーも朝晩となると規定の時間数をオーバーし介護保険が効かず実費となるので、費用もばかにならないことが分かった。その頃、丁度、近くにグループホームが新設されることになり、かかりつけ医がその情報を持ってきた。直ぐにいっぱいになってしまうが、早めに申し込めば入居可能ということだったので、かかりつけ医の先生からも本人によく説明してもらい入居することを決めた。こちらも、これで、毎日、気にかけている必要もなくなり、一段落の思いであった。ところが、入居後、1、2か月は面会も外出もできよかったのだが、丁度、その頃から、コロナ感染が本格化し始め、それができなくなってしまった。もともと歩き回るのが好きだったため、ストレスがたまり、徐々に施設になじめなくなり脱走しかかったり、せん妄症状により問題行動をとるようになったりした。施設としても面倒を見切れないということで、一時的に精神病院へ入院してほしいと言われた。予想もしなかった展開に、それでは忍びないと、兄弟の家で預かることになったが、それも1、2か月すると、今度は、預かった家に負担がかかり、それ以上継続するのが難しい状態になった。何とか、適当な施設が見つかるまで、ショートステイでつないでいたが、その途中で、転んでひざを痛め入院することになってしまった。約1カ月入院したが、その間に、新しいケアマネが精力的に動き回ってくれて、何とか新しい施設を見つけることができた。新しい施設は10年ほど経過していたので、初めの施設程きれいではなかったが、アットホームな感じで過ごしやすい雰囲気があり、母親もすぐに馴染むことができたようであった。施設の良さは、見栄えでは決まらないものだとつくづく思った。エントランスが立派だからといって、それに比例して居心地が良いというわけではない。要は、働いている人次第である。入居してから既に2年余りが経ち、その間、リュウマチ性筋痛症や股関節骨折などで入院したり、脳梗塞を発症したりしたが、今のところ施設によく馴染んで上手く過ごせているようである。99歳になったときには、兄弟、子供、孫が一堂に会し、白寿の会を催すこともできた。

 昔は寿命が短かったので問題にならなかったが、長寿になるに従い認知症が問題になるようになった。4人の親がもれなくなった現実を考えると、認知症に効く薬も開発されているとはいえ、いずれ、遅かれ早かれ自分もそうなることは想像に難くない。昔は、家で子供が親の面倒を見たが、そういう時代は終わりつつある。長寿になるほど老々介護になるので、現実的にも自宅介護は共倒れになる危険性があり、困難であろう。最終的に施設に厄介になるのは当たり前になり、もはや、どの施設にするかということが問題になる時代がもう間近に迫っているように思う。老いることは必然で、順番だから仕方ないことである。できることとしたら、認知症になる前の自分の意識がはっきりしているうちに覚悟を決め、身の振り方を考え早めに手を打つことであろうか。



 


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※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。