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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

34 祖先との対話-ルーツを探る-

 少し前になるが、一時、「自分のルーツを探る」のが流行ったことがあった。テレビでは、今も「ファミリーヒストリー」という番組が組まれ好評を得ている。毎回、様々な分野の著名人のルーツが紹介され、その度に、思わぬ発見があるようで、自分の場合はどうなのかと気にかかってくる。有名人でなくとも誰でも、自分がどんな星の下に生まれたのかは興味深いところである。なかんずく、齢(よわい)70半ばを過ぎようとしているシニアになると、それを確かめておきたいという衝動にかられるものである。 コロナが本格的に流行り始める少し前、長男として80歳で亡くなった父の23回忌の法要を取り仕切ることになり、列席いただく親戚に何か記念になるものをということで、家系図を作ってみることにした。自分の祖先に関しては、両親や祖父母から口頭で断片的には聞いたことがあり、父方は駒込、母方は浅草の出であることぐらいは分かっていたが、詳細がわかる家系図のような書面になったものを見たことはなかった。もう生き字引として生存しているのは実母しかおらず、聞きただしてみたことはあったが、記憶に残っているのは、ごく限られた範囲であった。ならば、自分で足を運んで調べるしかないと思い、檀家ではなかったが菩提(ぼだい)寺であった駒込の寺に過去帳を調べに行ってみた。しかし、きちんとしたものが取ってあったかは定かではないが、個人情報の関係もあるという理由で、見せてもらえなかった。そうなると、手掛かりとなるのは戸籍謄本しかないと思い、関係する区役所を訪ねることにした。豊島区役所、荒川区役所、それに祖父の出である埼玉の浦和にあった市役所に出向いて、閲覧理由を説明し、戸籍を順に遡(さかのぼ)って調べてみることにした。しかし、分かったのは江戸末期の高祖父までで、それ以前の書類は関東大震災や東京大空襲で焼失してしまい残っていないとのことだった。やむなく、これまで聞き齧(かじ)った記憶と、集めた資料だけを頼りに家系図を作成することとした。

社史関連エッセイ挿図34

 江戸末期から、明治、大正、昭和、平成、令和に至る我が一族の変遷の概略は図に示す通りである。我が一族は、分かる範囲で江戸末期の高祖父の時代から左官業を営んでいたようであった。それを引き継いだ曾祖父(1846(弘化2)~1917(大正2))は、何人もの弟子を抱え手広く左官業をしていたようで、その中の腕の良い弟子の一人(祖父)を娘(祖母)の婿に迎え、商売を継がせた。しかし、左官業は継いだものの、息子が一人おり本家を継いだので、祖父母は分家の身となり独立した家として新たなスタートを切ることになった。祖父は、埼玉県の大宮の農家の生まれで、末っ子だったので、左官屋に奉公に出されたものと思われる。祖父母には4人の子供がおり男は父だけだったので、祖父としては、左官業を息子(父)に継がせようと思ったようであった。しかし、現場に連れて行き手伝わせても、父が不器用だったのでものにならないことが分かり、諦めたようであった。父の方も、お天気次第で実入りが変わる不安定な左官という仕事が性に合わず、いわゆる職人気質も好きでなかったようで、教師の道を選んだ。その結果、代々続いた左官業は祖父の代で打ち止めということになった。この辺のいきさつは、弟の結婚式のとき「自分は謀反(むほん)をして、左官屋を継がずに教師になった」と父が述懐(じゅっかい)していたのではっきり憶えている。たまたまであったが、弟の妻の実家が工務店を営んでいたので、父としては「自分の代で左官業が途絶えた」と忸怩たる思いがあったが、回りまわって建設業の家と縁ができたことに、巡り合わせの妙を感じていたようであった。

 母方の、高祖父、曾祖父が浅草近辺でどんな仕事をしていたかは確(しか)と突き止めることはできなかったが、祖父は浅草で仕立屋を営んでいた。母の姉は、親の仕事を見ていて馴染みがあったのであろう浅草の洋服店に勤めた。母は子供のころから成績が良かったらしく、姉と同じ道は歩まず、女学校へ行き教師の道に進んだ。そして、戦時中、臨時教員として勤めた学校で同僚であった父と知り合い結婚した。保谷(現西東京)の父が勤めていた学校の近くに所帯を持ってからは、祖父母と同居だったこともあり母は専業主婦となったが、子供が大学生の頃、学費の足しにするために、「蛙の子は蛙」でとっつきやすかったのであろう伯母(母の姉)のやっていた洋服店の仕立ての内職をしていたことがあった。その後、自分の兄弟は同種の仕事につかなかったので縫製業の仕事は母の代で終わりかと思いきや、隔世(かくせい)遺伝(いでん)なのか、姪っ子(弟の娘)が夫婦で起業しオリジナルの服をデザインし通信販売で暮らしを立てている。

 自分は、4人兄弟であるが、自分以外の3人は教師になり、父の後を継いだことになる。自分は、職人ではなくサラリーマンであったが、建設関連業ということで、祖父の仕事と関係がある仕事に就いた。祖父とは縁があるのか、祖父の埼玉の実家は大宮のはずれで、現在、自分が住んでいる川越の家から車で30分とかからない所にある。別に、それを意識して住まいを決めたわけではけしてなかったが、偶然とは不思議なもので、吸い寄せられるようにしてこの地に来たのかと思ったりしている。自分の子供たちは、それぞれ、長男が福祉関係、次男が医療関係、三男がイベント関係の仕事に就いた。やっている内容を見ると、長男は教師であった父のように人相手の仕事、次男はエンジニアであった自分と同じような仕事、三男はイベントといっても現場の設営などを含む天候に左右されやすい祖父と同じ職人のような仕事に、それぞれ携わっている。考えすぎかもしれないが、3人とも何か先祖と繋がりがあるような職に就いたのは、当人は無意識かもしれなくが、血統というのは知らず知らずのうちに、何らかの形で伝わるものなのではないかと勝手に解釈している。

 家系図を作成してみて感じたことは、我が一族のルーツは、途中、教師という若干インテリっぽい要素も加わったが、左官屋、仕立屋などの職人であったということである。調べる前に若干期待したような有名人や功成り名を遂げたような著名人が輩出されているわけでもなく、あくまで、庶民派であり、在野の身であり、市井の人であったということである。これから、孫たちがどんな仕事に就くのか、我が一族の辿(たど)った経緯と関係のある職種を選択するのか、楽しみでもある。また、自分の代までは東京、埼玉、神奈川と親戚も関東近郊に限られていたが、子供の代から群馬や新潟出身者も加わり、孫の代になると、どんな広がりを見せてくるか見ものだという期待感もある。また、変な言い方になるかもしれないが、子供は夫婦の必然の産物であるが、夫婦の出会いは偶然なので、自分が今ここにいるのは、偶然の産物ということもできる。だから、出来上がった高祖父を頂点とするツリーのような形状の家系図は、偶然の重なり合いによって出来上がった、またとない固有のものである。そんなことは分かり切ったことであるが、出来上がった家系図を改めて眺めていると、人類の長いスパンの歴史から見れば高々200年足らずの話で、登場する人物は因果関係が歴然とあるとはいえ、少しだけ生まれるのが早かったか遅かったかという違いがあるだけの同時代人と言ってもよい仲間同士なのではないか、そんな感慨さえ覚える。

 我が家の墓は、東京都下の西多摩郡に位置する霊園内にある。祖父の代までは、駒込の菩提(ぼだい)寺の片隅にあったが、父親が祖父が亡くなったとき移したものである。先祖代々の地から墓を移すにあたり若干の拘(こだわ)りはあったようであるが、本家の墓と同じ所にあるよりも、子孫がハイキングがてらに立ち寄れるような郊外の見晴らしの良い所の方が良かろうと思って今の所に移したらしい。父が他界して以降、菩提(ぼだい)寺とも縁遠くなったので、4~5年前に自分の方で縁を切ることにした。今ある墓には祖父母と父親が入っており、自分は余り信心深い方ではないが、冠婚葬祭を重んじる女房の影響もあり、盆暮れ、お彼岸、父の祥月命日には必ず墓参りをしている。子供たちも、親にならって、折に触れ墓参りに行ってくれているようである。墓が建てられてから50年近くなるが、周囲の様子も随分変わってきた。今の時代、子供が少ないせいか跡継ぎがいないケースも少なくないのであろう、荒れ放題の墓も多い。墓じまいしたのか、霊園の方で処分したのかわからないが、歯抜けの箇所も目に付くようになってきた。

 墓参りは何のためにするのかということを改めて調べてみると、大きく二つの意味があるようである。1つは、墓に入っている故人が無事成仏できるように冥福を祈るため、2つ目は、結婚、入学、就職などの人生の節目を無事迎えられたことの報告と、自分が生を受けいまここに存在することへの感謝の念を表すためということのようである。しかし、墓参りには、もう1つ重要な意味があるように思う。それは、自分が今抱えている悩みをぶつけ、あるいは、人生の岐路に立ちこれで良いのかという問いかけを行い、判断を仰ぐために墓を訪れるのではないだろうか。同じ仏教国でも小乗仏教の流れをくむタイ、ミヤンマー、カンボジアなどの東南アジアの国々では、大乗仏教の流れをくむ日本の仏教と異なり、葬儀は大々的に催すものの火葬し散骨するのが一般的で、一族の墓は持たない。しかし、事あるごとに寺院に出向き仏像を拝むだけでなく、一生に一度は、一定期間、仏門に入り自らをさらけ出し仏陀と対峙し修行する習慣があるようである。日本の場合は、決まった宗教を熱心に信仰している人は別にして、普通の人は、なかなか、改めて自分を見つめ直す機会はないものである。自分も含めそういう普通の人にとって、墓参りは、日常から一時離れ、厳粛な雰囲気の中、神妙な気持ちで内省する絶好の機会であるように思う。墓に向かって手を合わせていると、故人を懐かしむことができるとともに、故人の生前の温情や自分を励ますためにかけてくれた言葉が思い起こされる。いつのまにか平静を得ることができ、心の対話をするうちに、それまで悩んでいたことの解決の糸口もつかめるような気がするものである。最近、墓参りするときは、家系図でわかった祖先に思いを馳(は)せつつ、いずれ遠くない将来に世話になるであろう墓石に真向かい、「末永く家族をお守りください」と手を合わせることを習慣づけるようにしている。

 


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※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。