親は、子供が物心がつく年頃になると、何か習い事をさせようと思うものである。何を習わせるかは、親の好みや考え方による。単に、周りの同年輩の子供を見て、右に倣(なら)えということでやらせる場合もあるし、自分がかつて習っていて叶わなかった夢を子供に託そうという場合もある。逆に、自分が子供の頃やりたいと思っていて、事情が許さなかったものを子供にやらせたいと思うケースもあるかもしれない。習い事としては、運動では水泳、野球、サッカー、音楽ではピアノ、その他に、習字、絵画、英語などが、相場と言ったところであろうか。いずれも、何かの能力や技量が身に付くもので、あわよくば、その道のプロにと期待する親も少なくないのではないだろうか。自分が子供の頃も、今ほどではないが、そろばん、習字、絵画など色んな習い事があったが、小学校6年のとき、親の勧めで入ったのは、ボーイスカウトであった。その頃を振り返ると、運動が好きで、よく、近所の子供たちとソフトボールやドッヂボールをしていたし、ハーモニカや縦笛もクラスではうまい方であったし、絵や算数も人並み以上はできた。しかし、そういう何か技量を身に付けるような習い事を、親はさせようとは思わなかったようだ。父親は小学校の教師であったが、軍隊式教育が良いと思っていたわけでもなかっただろうし、直接、ボーイスカウトに関係していたわけでもなかったが、何かのきっかけでボーイスカウトに対して好印象を持ったのであろう。なぜ、子供をボーイスカウトに入れようと思ったかは、生前改めて聞くこともしなかったので、未だに謎のままである。ともあれ、そんなきっかけで、その後、小学校6年から中学3年までボーイスカウト、高校になってシニアスカウト、大学時代はローバースカウトと、社会人になるまで12年間、ボーイスカウト活動をすることになった。特に、気に入っていたというわけではなかったが、性にあったのか、いつの間にか自然に続いたというのが正直なところである。
ボーイスカウトは、イギリスの軍人ベーデンパウエルがアフリカに滞在した折、試しに少年を斥候(せっこう)として使ったところ、思いのほか、敵に悟られずに任務を遂行できることがわかって、20世紀初頭に設立を思い立ったと言われている。軍隊式の教育方法をとっているのは、こういったそもそもの設立経緯に由来するものである。その後、日本にも伝搬され、大正時代に少年団として設立され、初代の日本連盟の総長は後藤新平であった。戦後、主に宗教法人が社会教育の一環として関わってきたが、自分が入ったのも、住んでいた田無(現西東京)のお寺の住職が始めたものであった。本部は、寺の本堂裏の一部を使わせてもらって、定例の集会は境内で行っていた。ボーイスカウトの組織は、図に示すように、ビーバー(小学1~2年)、カブ(小学3~5年)、ボーイ(小学6年~中学3年)、ベンチャー(旧シニア)(高校1~3年)、ローバー(18~25歳)の階層にわかれており、それらの隊が合わさって団を構成し、その上に順に地区、都道府県の組織があり、日本連盟は世界スカウト会議に加盟している。
自分が入ったボーイスカウト隊は、4つの班から構成され、班を一つの単位として活動していた。隊集会は、毎月1~2回、日曜日に、制服にネッカチーフ、ハットを被って、寺の境内に集まり開かれた。大概、馬(ば)蹄(てい)形に整列し、国旗掲揚から始まった。集合、気を付け、休め、三指の敬礼などの動作は、号令ではなく、すべてジェスチャーとホイッスルの合図で指示が出された。国旗掲揚が済むと、日本連盟の連盟歌やボーイスカウト独自の歌の合唱があり、引き続いて、隊長からその日のスケジュールが発表された。定例集会では、縄の結び方や手旗信号、救急法などの訓練をするのが主であったが、「水雷艦長」という鬼ごっこのゲームなどをやることもあった。定例の集会以外に、近郊の山にハイキングへ行ったり、赤い羽根などのボランティア活動をしたり、鼓笛隊を編成して地域の行事に参加することもあった。ボーイスカウトには、初級、2級、1級、菊の4つの階級があり、それぞれ進級テストが行われた。合否は、野営章、救急章などの技能賞を取得しているかどうかも基準となっていたが、マッチ1本で火を起こすという実地テストなども含まれていた。無事テストに合格すると、上進式があり、暗闇の中、蝋燭(ろうそく)の灯だけの厳粛な雰囲気のもと、誓いを立てる儀式が行われた。ボーイスカウトには、3つの誓いと8つの掟があり、それを暗唱することが要求された。一人ひとり神妙な気持ちで誓いを述べた後、全員で「3つの誓い」や「永遠のスカウト」という歌を合唱することになっていたが、その歌詞の中には「この世のスカウトに命捧げてつかえなば、死して後もスカウトだ」という強烈な文言が含まれており、初めてそれを聞いたときには、新興宗教に入信してしまったのではないかというような気持ちに襲われたのを憶えている。
ボーイスカウトの日々の訓練の総決算ともいえるのが野営である。ボーイスカウトのキャンプでは、野営生活に必要な、かまど、調理台、食卓、食糧庫、トイレなどは、全て、草木を荒縄などで結びつけ手作りすることになっている。かまどは、立ったままで調理ができるように木々を組み合わせて高床式のものを作った。炊事に必要な火は、マッチと紙、それと拾い集めた薪(たきぎ)だけで起こさねばならず、燃料油などの使用は禁止されていた。食材などの切れ端はそのまま捨てるのではなく、全てかまどで炭になるまで焼却処分するよう言われていた。炊事が終わり、かまどの火を落とすときは、火は尊いものという意味なのか、水を使うことは禁止されていて、土をかぶせて消化するきまりになっていた。起床から消灯までの日々のスケジュールは時間ごとに明確に決まっており、炊事に手間取り食事が間に合わない場合は、一食抜きということも間々あった。何はともあれ食事ができなければ始まらないので、集めた薪(たきぎ)は、夜露で湿るのを防ぐために、テントの中に収納することにしていた。野営のクライマックスは、何といっても営火(キャンプファイヤー)で、井桁に組んだ火を囲んで「チェチェコリ」、「アチャパチャノチャ」といったボーイスカウト伝統の歌や踊りが披露されたり、班ごとにスタンツと呼ばれる創作した寸劇を演じたりした。
野営の中で一番辛かったのは、夜中の非常訓練であった。夜中、何の前触れもなく、ホイッスルのみで号令が発せられると、飛び起きて、制服に着替えて集合しなければならなかった。班長になると、寝起きがよい班員ばかりではなかったので、班員を起こし、制服に着替えさせ、所定の場所に集合し整列させるのが一苦労であった。時間を稼ぐため、制服を着たまま寝ることはもってのほかと禁止されていた。各班競って駆けつけるわけあるが、時間厳守で、集合が遅かったり、制服が乱れたりしていると、連帯責任で、ペナルティーが課せられた。野営場は、大概、外界(がいかい)から隔離された山奥で、辛いからといってどこにも逃げ出すこともできない。そんな閉鎖空間で四六時中一緒の共同生活となるので、どうしても、各人のわがままも含めた地が出てくるものである。厳しい規律を守りながら、好き勝手なことを言う班員を一つにまとめるのは大変で、毎晩、後何日で終わるかを数えるような日々であった。正直、野営を終えテントを撤収し帰路についたときには、「これで帰れる」と、いつも胸を撫でおろしていたのを憶えている。どんな習い事でも合宿みたいな泊まり込み形式で生活することはあるとは思うが、ボーイスカウトの野営のように、大自然の中で子供にとってはある種の極限状態といえるような切羽詰まった経験をすることはないのではないだろうか。
高校へ入ってからは、自然の成り行きでシニアスカウト(現在のベンチャースカウト)にはなったものの、テニスクラブに夢中で、スカウト活動には熱心ではなかった。大学に入ると、ローバースカウトが一つのクラブになっていることがわかり、早速入部してみたが、10名程度の少人数のクラブであったこともあり、直ぐに馴染むことができた。ほとんどがボーイスカウト経験者で占められていて、各々、地域のボーイスカウト隊のリーダーも務めていた。自分も育った団のリーダーとして、ボーイスカウトの野営を手伝ったり、シニアスカウトの自転車による房総半島一周の旅に同行したり、船酔いする子供たちの面倒を見ながら返還前の沖縄に行ったりしたこともあった。大学でのローバースカウトの活動内容は、冒険部のようもので、1年のときは琵琶湖を筏で10日間かけて北から南へ縦断した。3年のときは、無人島になった八丈小島に渡り、1週間余り野営をしたりした。皆、ボーイスカウトの標語である「備えよ、常に(Be Prepared)」の精神が板についていたので、企画から実行までを手際よくこなすことができた。4年のときは、丁度、ボーイスカウトの世界ジャンボリーが朝霧高原で開催され、ボランティアとして参加することにより、ボーイスカウトが世界的な組織であることを実感することができた。
大学におけるローバー活動は、ボーイスカウトという面と同時に、クラブという側面も持っていた。丁度、その頃は、学園紛争の真っただ中であったこともあり、3畳程度の狭い部室や先輩の下宿先に屯(たむろ)して、部員の仲間たちと、身近なことから社会全般に関わることまで、とりとめのない色々な話題について議論を交わした。その中で、「ローバーとは何か、その目的は何なのか、どんな活動をすべきか、今のままでよいのか」といったことをよく議論した。運動部や音楽部ならば、上達するという明確な目的があるが、ローバーの場合は、何を目標にどう努力すべきか、暗中模索していた。ローバーとは、本来、放浪者という意味であるが、放浪することにより何か得られるものがあるのかが、気がかりであった。そのせいか、ローバーの中には留年する人が多く、それが、いわば求道者としてのローバーらしさの印であるような風潮があった。実際、ローバーの仲間の中には、卒業後、新宿のバーテンダーになったり、上野の焼き鳥屋になったりと、ローバーを地でいくような生き方をする人も何人かいた。いずれにしろ、人は何を目的にどう生きるべきか、人間らしい生き方とは何かといった問題に対して、本音で拘(こだわ)る人間が終始周りにいたことは、ものすごい刺激量であったことは間違いない。そのような雰囲気を醸し出すことは、スポーツや音楽のような価値基準がはっきりした部においてはなかなかできないことだったのではないだろうかと今にして思う。
ボーイスカウトに対して、世間一般では、ライオンズクラブのような金持ちの子息の集まりとか、軍国主義の信奉者の集まりとか、教会や仏教などの宗教団体の一種とみる向きもあるかもしれない。しかし、小学校6年から社会人になるまで12年間スカウト活動に関わってみて、どれも当たっていない気がする。指導者は全てボランティアなので月謝は他の習い事よりもむしろ安価なものだし、軍隊方式をとっているけれどもそれはあくまで教育の方法論であり思想的な背景があるわけではないし、宗教のように戒律が厳しい道徳的な集団のように映るかもしれないが、育った仲間を見てもけしてストイックな人間が多いようには思えない。ならば、青春の多くの時間を費やして、そこから、何を学んだのか、何を得たのであろうかということであるが、強(し)いて言えば、一つは自然との共生というか、野営を通じて、大自然への畏敬の念は培われたような気がする。今でも、たまにキャンプに行き、営火を見つめていると、子供の頃、大自然に包まれた中で、燃え盛る火に照らされながら感じた厳粛な気持ちが蘇(よみがえ)ってくる。自然相手の土木という職業に就いたのも、その影響もあるかもしれない。もう一つは、チームワークの大切さみたいなものが染みついたことであろうか。長期間、野営地で共同生活をしていると、自分の感情を隠し通せるものではなく、いやがおうにも、その人の本性、赤裸々な姿がむき出しになってくるものである。そのような状況で、何とか年の違う仲間をまとめようとしたことが、必然的に人間を見る眼を養い、社会人になってから、チームワークを必要とする場面で手助けになっているように思う。ボーイスカウトとの縁は自分だけでは留まらず、息子も孫も、ボーイスカウトに入隊した。息子は職業として福祉関係に就いたが、それはスカウト活動をしていたことと無縁ではない気がしている。そう考えると、ボーイスカウトには、自分では気が付かないかもしれないが、人格形成上、何がしかの影響を与える力があることは確かなようである。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。