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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

38.私の教育体験録-蛙の子は蛙か-

 小中学校、高校時代は、当然ながら、教育を受ける立場であったが、表に示すように、大学生になって家庭教師のアルバイトをやり、初めて教育をする立場を経験した。大学1~3年の頃、友人の紹介で、小学生と中学生、2人の子の家庭教師をほぼ同時期にやることになった。小学生の子供は、小学校の高学年の男の子で、あまり成績は良い方ではなかった。科目を問わず、わからないことは何でも教えるようにしていた。週1回程度の頻度で2年近く三鷹近郊にあった子供の自宅に通ったが、眼に見えた効果は上がらなかったのではないか思う。それよりも、休日に釣り堀やドライブに連れて行ったので、遊び相手にはなっていたのではないだろうか。一度、用事があり自分が行けなかったとき、高校の教師をしていた2歳年上の姉に、夏休みだったので、ピンチヒッターで行ってもらったことがあった。後で、子供にどうだったかと聞くと、姉の方がよくわかったという返事が返ってきた。それを聞いて、やはり、教えるには教えるだけのノウハウ、プロとしての技術というものがあることを気付かされた。もう一人は、中学生の女の子であったが、確か数学などの主要科目を教えたような気がする。何も準備をせずに田無(現西東京)にあったその子の家に向かい、教科書を開くこともなく、その場で問題集を見て、子供にやらせている間に自分も解いて、答え合わせをするというもので、随分、いい加減なものだった。今から思うと、いくら、アルバイトだからといって、テキストも用意せず、カリキュラムも作らずに、行き当たりばったりでやっていたのでは、成績が上がるはずもない。思えば、英語を習う場合、英国人や米国人ならばホームレスでも英語を話すわけだから、英語を話せれば誰でも教師が勤まるというわけではない。本来、家庭教師を選ぶときには、英語を教えた経験があるかどうかを問題とすべきなのであろう。今さらであるが、自らの反省も込めてそう思う。

社史関連エッセイ挿図38

 会社に就職し10年位経った頃、上司の紹介で、電気工事の専門会社の中堅の主任クラスを対象にした研修をやることになった。テーマは自分が専門とする「土質工学」であったが、就職してまだ経験も充分とはいえず、とても、人に教えるレベルにあるとは思えなかったが、面(つら)の皮が厚かったのか、思い切ってやってみることにした。筑波に宿泊もできる研修専門の施設があり、そこで、3日間、缶詰でやる研修であった。受講生は15~20名位で、全員、現場経験の豊富な自分よりも年上の社員であった。それまでの業務経験を踏まえて何とか専用のテキストを作成し、朝9時から昼食をはさんで夕方まで、1日6時間近く講義をした。座学で習得した知識を現場で活かしてもらおうという意気込みで臨んだが、それを連続して3日間続けたので、喉がかれてしまい3日目の終わりには、かすれ声になってしまったのを覚えている。結局、1年間にその研修を3回実施し、それを3年間担当することになった。一人でやるには重労働なので、最後の年は、後輩に分担してやってもらうことにした。

 世の中には、公認会計士や税理士などの業務独占資格というものがあるが、その一方で、仕事をする上でどうしても必要ではないが、その資格を持っていることがステータスシンボルとなり、仕事を受注したり消化したりする上で役立つ職業資格というものがある。勤めていた会社の属していた建設コンサルタント業界においても、そのような国家資格があり、会社でも若手社員は誰しもその資格を一つの目標として、受験勉強をするのが風潮になっていた。そのような業界内でも一目置かれる資格は社としてもメリットがあるので、会社でも兼ねてより個別的には受験者に対する支援を行っていたが、丁度、自分が50歳前に人材育成の責任者になった頃、大々的に資格取得支援システムを構築することになった。基本的な方針として、その資格試験は記述式で、いかに合格レベルの答案を作成できるかが決め手となるので、受講者の専門別に添削指導のできる既に当該資格を所有している先輩社員を人選し事にあたらせることとした。早速、受験者の勉強の仕方が分かる「受験の手引き」、添削指導者を対象にした「指導マニュアル」、それに、既存の合格者の答案を集めた「合格論文集」、この3点セットを携えて、全社的に周知するために、本社、全国の支店を巡回するようにして説明会を開催することにした。それを年4ヵ所程度、4年間ぐらいは自分が直接説明して回った。その後、この支援システムは自分が退職後も継続運用され、既に、30年近く経つのではないかと思う。正確な合格者の総数はわからないが、この資格試験は毎年行われる試験で何回受験してもよく、平均すると3回程度受ければ合格する場合が多かったので、このシステムを利用し真面目に自己研鑽した者の大半は、既に、合格しているのではないかと自画自賛している。

 人材育成の責任者になって打ち出した施策として、資格取得と共に力を入れたのは、社員のキャリア形成に関する研修であった。対象としては、入社後10年程度の経験を積んだ30~35歳ぐらいの社員とし、部署、専門を問わず招集することにした。コーチ役は全て自社社員とし、身近な先輩の背中を見せ、ベンチマークになってもらうという意味で、丁度、10年位年上の社員を数名選定し任に当たらせることにした。内容としては、まず、入社してからこれまでの「一皮むけた体験」を発表し、その後、今後10年間のキャリアビジョンとそのアクションプランを作成するものであるが、その中に、必ず、企業倫理の講義を入れることとし、いつも身近で具体的な事例なども入れて自分が説明することにしていた。最終的に、出来上がった各自のオリジナルのビジョンを経営トップの前で決意表明をすることになるが、その前に、その場で間髪入れずに受講者の発表内容を総括する必要があった。研修の責任者である自分がその任を果たす役回りだったので、ぶっつけ本番でまとめる必要があり、毎回、緊張の連続であったのが思い出される。この研修は、2002年から開始され、一度に10~20名を対象とし年3~5回実施し、自分の退職後も引き継がれ、現在まで20年余り継続されているので、少なく見積もっても1000人以上は受講したのではないかと推察され、社の人材育成策として定着し、それなりに効果を上げているのではないかと、密かに自負している。

 40代半ばに母校で博士号を取得してから10年近く母校との接触はなかったが、ある日突然、博士号の指導教官から電話がかかってきた。要件は、非常勤講師をやらないかというものだった。しかし、50代半ばになり社内外の仕事で多忙を極めていた時期であり、一度は断ろうと思ったが、学位をとった者が母校に貢献するのが慣例になっていたようだったので、自信はなかったが引き受けることにした。講義内容は「地盤環境工学」というもので、仕事の合間を縫って、週1回、1コマ1.5時間の授業を受け持つことになった。早速、現役の技術者であるという特徴を活かして、学問と実務を如何に結びつかるかということに焦点を当て、半期14回分のシラバスを作ることにした。その結果、1年目は、毎回の授業の教材を準備するのに結構手間を要した。こちらも、苦労して作った資料を必死に説明しているので、授業中、うとうとするくらいはよいが、帽子をかぶったままだったり、携帯をいじっていたり、用を足す以外で部屋を出入りするのは禁止することにした。代弁が頻繁に行われていることがわかり、出欠用紙を配り筆跡判定をしたこともあった。担当した科目は3年次の授業であったが、必須科目だったので、単位を取れずに毎年留年している学生が受講生約100人の中の半数近くいた。ある夜、そんな学生の一人から自宅に電話がかかってきた。内容は「毎年留年し、既に、在籍限度の8年目であり、この単位を取れないと学校を去らなければならず、就職も決まっているのに、親に顔向けできない」というものだった。情に流されずに、機械的に採点し冷酷に判断すればよいと思っていたが、丁度、その頃、三男が大学生で学生の気持ちもある程度察しがついたので、杓子定規(しゃくしじょうぎ)にするのは余りに不憫(ふびん)かと思い、何回か追試をして通してあげることにした。同僚の教官からも、既に、就職が決まっているので、ゼミの学生を何とか通してくれないかと、同じような話を頼み込まれたこともあった。非常勤講師を初めて4年目ぐらいから、担当科目が必須でなく選択になり、受講者数もだいぶ減ったので、気分的にも楽になった。当時、色々な組織で品質保証認定(ISO)が流行っており、御多分に漏れず母校もその認証を取っていたが、その関係で顧客満足度(大学の場合は学生の満足度)を知るための学生による採点評価アンケートが実施された。その結果を見ると、自分が担当した授業は全学部平均を上回っているのが分かった。何だかんだ6年間大学に通い、授業だけでなく採点などにもそれなりに苦労したものの、実のところその評価はどうだったか心配であったが、満更(まんざら)でもなかったので胸を撫でおろしたのを憶えている。

 教師の子として生まれ、他の三人の兄弟は教師になったにも拘(かか)わらず、一人だけ民間企業に就職したわけであったが、「蛙の子は蛙」とはよくいったもので、結局、サラリーマン時代を通じて、不連続ではあるが足掛け20年近く「教育」という仕事にかかわることになった。今から思うと、初めから意図したわけではなかったが、これも何かの巡りあわせだったのかもしれないとしみじみ感じている。  


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。