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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

39.スポーツとのつきあい方-競うでなく楽しむ-

 最近、高校や大学の運動部の監督やコーチのパワハラとも思える行き過ぎた指導や、運動部員の薬物等の不祥事が取り沙汰されているが、そもそも、スポーツ競技は、清廉潔白な人を育てるために行われているわけではないので、「さもあらん」という気もする。指導者は上達することを教えるのであって、道徳を教えるわけではない。スポーツにより体が鍛えられることは確かであるが、同時に精神も鍛えられるとは限らない気がする。別物のように思う。確かに厳しい練習を耐え抜くことで、辛抱強さや根性みたいなものは身に付くかもしれないが、その人が一生の中で窮地に陥った際、拠り所となるような精神的支柱ともいえるものが身に付くかというと、そうではない気がする。よくスポーツというと、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉が引き合いに出されるが、そこにはスポーツに対する幻想があるように思う。スポーツマンシップというと、スポーツ競技によりフェアな精神が養われるかのように受け取られるが、ドーピングに見られるように、アンフェアであっても、勝ちさえすればよいということで、勝つためには手段を選ばないというケースも少なくないのではないだろうか。少し昔の話になるが、大学時代、学園祭のイベントで50キロハイクというイベントを企画開催したことがあった。色々なクラブが参加したが、その中で柔道部が、途中、人通りの少ない所で、待ち構えていた車に急いで乗りこむのを目撃し、普段厳しい練習をしているかもしれないが、スポーツマンシップのかけらもない行為だと、つくづく感じた。 

 小学校時代から現在に至るまで、表に示すように、色々なスポーツを体験してきた。小学校のときは近所の友達とよく草野球やドッヂボールなどをした。特別、足が速いとか運動神経が良いというわけではなかったが、何でも10人並みにはできたのではないかと思う。中学高校時代は、テニスに夢中になった。高校時代は、朝、始業時間の1時間前に登校し、朝練、放課後は日暮れまで白球を追った。新人戦や地区の大会など様々な競技会に出たが、自分なりには努力したつもりであったが、結局、実力はなかなか伸びず、目覚ましい成績を収めることはできなかった。原因の一つは、一言で言えば、才能がないということになるが、体が硬い、特に、手首が硬いので、打つときに弓のようにしならないということのようであった。どんな球技でもそうであるように、身体全体がばねのようにならないと、速い球を投げたり打ったりすることはできないものである。もう一つの根本原因は、勝つことに対する拘(こだわ)りの無さかもしれない。根性がないわけではないと思うが、子供の頃から、「向きになるな、負けるが勝ちだ、我を張るな」と教えられてきたので、自ずと、争いを好まない性格が出来上がってしまっていたように思う。なお、テニスは60歳を過ぎてから高校時代の友人から声がかかり復活した。ただし、学生時代と異なり、勝負にこだわらない気楽なテニスとしてである。

 大学に入ってからは、常に勝ち負けを争い、部内でもレギュラーを争う運動部は性に合わないし、厳しい練習を続けようとも思わなかったので、テニス部には入らなかった。大学時代始めたスポーツと言えば、友達に誘われて覚えたスキーぐらいであった。その後、スキー場へは、子供が小中高校時代は、毎冬、会社の保養所を利用し出かけていたが、子供が成人してからは行かなくなった。ゴルフは、就職してから社内の親睦の必要性から始めた。知人からお古のゴルフセットをもらい30代の後半になって初めてコースに出た。その後、社内のコンペに、立場上、やむなく参加していたが、いつも直前に打ちっぱなしに行くだけで臨んでいたので、なかなか上達しなかった。あるとき、コンペが終わり、風呂に浸かっていると、ベテランの先輩から手招きされて、「スウィングフォームに幾つものチェックポイントがあるのはわかるが、何回も素振りをしているようでは友達を失うよ」と冗談半分、本気半分で忠告された。ゴルフは、よく紳士のスポーツというが、「マナーを重んじるとはいえ、そこまで言うか」という気分になり、そんなこともあって、その後も何となく馴染めなかった。ゴルフは、ハンディをつければ誰でも楽しめるという点はよいのだが、やはり、上手くなるには、コースに何回も出向く必要があり、自分にとっては経済的にも難しいと考え、必要最小限、義理で参加する程度にして、退職してやめるまで夢中になることはなかった。

社史関連エッセイ挿図39



 つらつら考えると、物心ついてから今まで、唯一長続きしているスポーツがランニングであった。手軽にいつでもどこでもでき、お金もさほどかからないので、取っ付きやすかったためであろう。中高時代取り組んだ軟式テニスは、ダブルスが基本である。色々な部員とペアーを組んだが、少しのミスは「ドンマイ、ドンマイ」で済まされるが、それが頻繁になると、とかく組んだ相手のせいにし責めがちになるのは、人間の愚かさであろうか。どんなスポーツでも、そういう気持ちがおきがちな人はチーム競技には向かない気がする。それに対して、マラソンは、チームプレイでなく全て自己責任であるのが、性に合っていたのかもしれない。ランニングといえるものを始めたのは高校時代で、テニス部の基礎練習として、毎日、3~5キロを走った。クラスの中では長距離は速かった方だが、勿論、陸上部にかなうわけはなく際立って目立った存在ではなかった。大学時代には、ボーイスカウト活動(ローバース部)のイベントで100キロハイクに2回参加して、それなりに上位に食い込んだことはあった。就職し結婚した頃は、職場の仲間と駅伝大会に出たり、新婚当時住んでいた街のマラソン大会などに顔を出したりしていた。

  その後、仕事が忙しくなったこともあり、社内の部署対抗の皇居一周の駅伝大会には、誘われて出走していたが、それ以外に20年近くマラソン大会に出ることはなかった。40代後半になり、体調を崩したこともあって、女房の勧めもあり、地元の5キロ程度の新春マラソン大会に久しぶりに出ることにした。それがきっかけで、その後、5キロ、10キロ、ハーフと徐々に距離を伸ばし、30キロの青梅マラソン、荒川、河口湖のフルマラソンにも出走し、7時間前後かかったが無事完走することができた。最盛期は、毎月1回の割合で、関東近郊のマラソン大会に出場した。女房と一緒に走ったり、子供たちと組んで駅伝に参加したりしたこともあった。全部で100余りのマラソン大会に参加したことになるだろうか。大会の準備のため、練習にも励み、自宅の周りに1.5~30キロの距離別にコースを設定し、大会当日にピークをもっていくようにスケジュール調整をし、主に土日を利用し月間100キロ以上走った。筋肉疲労を取るために、四ツ谷にあった韋駄天(いだてん)というランニング専門のスポーツマッサージを紹介してもらい、大会の前後にはよく通った。フルマラソンにも何度か挑戦し、2004年、2008年には、年末に、仕事の合間を縫って女房や家族とともにホノルルマラソンに参加したこともあった。

 しかし、62歳の時、2度目の東京マラソンで何とか5時間を切って走った後、自分の限界もわかり、マラソン熱も冷めて、それ以降は、家族で地元の川越マラソンに年1回参加するくらいになっていった。2019年頃からコロナが流行し、マラソン大会も開かれないようになっている間に古希を迎え、腰痛が再発した。腰痛は、これまでも何回か経験していたが、大概、1,2ヵ月近くの整形に通えば、いつの間にか治っていた。しかし、そのときは、同じように整形に通っても、なかなか良くならなかった。医者に聞くと、老化により椎間板が減り背骨も少し曲がったことによる変形性腰椎症というもので、放っておくと脊柱管(せきちゅうかん)狭窄症(きょうさくしょう)になると脅かされた。何とか治る方法はないかと、色々な整形外科、整体、接骨院をはしごしてみたが、目に見えて良くはならず、結局、先生たちの共通した意見は、基本的に運動不足なので、治療するよりも身体を動かした方が、筋肉がほぐれ症状が改善するというものであった。それならばということで、初め自宅近くのジムに通うことも考えたが、それよりもこれまで慣れ親しんだランニングをしてはとの先生からのアドバイスを受け、ランニングを再開することにした。ただし、それまでのように、著名な大会に出ることやタイムを縮めることを目的とするのではなく、大会は年に1~2回練習の動機付けとして参加する程度にして、普段はリハビリを目的に週1~2回、タイムも計らずに2~5キロ程度家の周りをスロージョギングすることにした。

 スポーツは、勝ち負けがはっきりしており、曖昧なものがなく、ごまかしようがないという面ではわかりやすい。その反面、「努力は報われるとは限らない」という残酷な面があると思う。「サラブレッド」という言葉があるように、スポーツは遺伝的要素が大きく影響する。体の骨格、柔らかさ、筋肉の質、運動神経などは、相当程度、遺伝するものである。確かに努力もあるが、努力だけでは乗り越えられないものがあるということを、いくつかのスポーツを体験する中で痛感した。だから、運動にさしたる才があるわけではない凡人としては、苦にならないもの、性に合うものを、競うことをせずに、楽しみとして、むしろ健康管理の一環として続けることが、スポーツとのほどよいつきあい方なのだと思っている。  


風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇―働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意―ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ―父からの伝言―』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: ―企業人として思うこと―』など。