人間は良きにつけ悪しきにつけ何かと不安を感じ、悩み、落ち込みやすい生き物である。何か新しいことを始めるとき、期せずして未知なる領域に足を踏み入れたとき、どちらの方向へ進むべきか人生の岐路に立たされたときなど、自分は果たしてそれに対応できるのかと不安になる。そんなとき、それを解決するヒントと勇気を与えてくれる言葉がある。「大丈夫」とささやいてくれる言葉、心の平静さを取り戻させてくれる言葉、安心材料を提供してくれる言葉がある。これらの言葉に救われ、人は不安から脱出し、悩みから解放され、落ち込みから回復することができる。そのようないくつかの言葉に救われた経験は、誰しも、サラリーマン人生の折節で幾度となくあるのではないだろうか。そして、それらの言葉は、何も著名な人のものだけでなく、名もない身近な人が発した一言も含まれているのではないだろうか。これらの言葉を噛みしめることにより、不安を克服して、自ら動いてみて、初めて自信がつき、次のステップへ進むことができる気がする。
何をやるにしても、新しいことを始めるときは、たとえ、それが自ら率先して意識的に計画したものであっても、不安を伴うものである。どこから始めたらよいか、どのように取り組めばよいか、自分にそれができるだろうか、悩みの種は尽きない。そんなとき後押しをしてくれ、一歩前に踏み出すのに力になってくれた言葉がある。冒頭のこの言葉は、写真家、ジャーナリストとして著名な岡村昭彦の残した言葉である。
岡村昭彦を初めて知ったのは、学生時代に『南ヴェトナム戦争従軍記』を読んだときだったと思う。当時、米国の写真誌『ライフ』の誌面を矢継ぎ早に飾り、「ロバート・キャパに継ぐ戦争写真家」とまで評された同氏の「フィルムの詰め方を知らなかった」という告白は、誇張した表現で半ば比喩的に用いたであろうことは察しがついたとはいえ、驚きを禁じ得なかったが、テクニックや技量に囚われずに、あくまで物事の本質をとらえようという強烈な目的意識には、感心させられた。
学生時代、70年代の全共闘運動真っ盛りだった頃、「目的と目標の違い」という、今から思えば青臭く、傍(はた)から見れば机上の空論とも禅問答とも思えるような議論を狭い部室の中でよく重ねていた。ことあるごとに、「それはあくまで目標だろ、目的は何なんだよ」と相手に詰め寄り責め立てるのが習慣づいていた。議論が白熱すると、勢い、「君は何のために大学に来ているのか、何のために勉強をしているのか」というように、当時流行った「自己批判」を迫るような口調になり、お互い気まずくなることも多々あった。要は、目標はあくまで指標となる具体的ターゲットに過ぎず、より重要なのはその目標をなぜ立てたのかという目的であり、目的は目標よりも根源的であるというのが、当時の仲間の共通した認識であったと記憶している。
岡村の言葉の意味するところは、目的さえきちんと押さえておけば、それに至るプロセスや手段は二の次でよく、極言すると、専門的な知識や習熟はあまり重要ではないということなのであろうと、当時は解釈していた。同じ頃、『公害原論』などを著わした東大の宇井純なども似通った考え方を持っており、公害や環境汚染に関しては、専門家よりもむしろ素人の直観の方が信用に足るというようなことを論じていた。いずれにしろ、目的意識さえしっかりしていれば、それまでの経験や知識にとらわれることなく、躊躇(ちゅうちょ)せずに前に進めばよいという考え方は、心に刻まれたように思う。
就職し社会人になると、大なり小なり、それまでやったことがないような新しいことを、自ら始めるという立場に置かれることになる。入社5年目に所属した部署が新たな分野を担う新設部署であったこともあり、社内の誰もやったことのないような新規分野にチャレンジすることも少なくなかった。社内に実績がないから、当然のことながら蓄積された技術資料やノウハウも皆無だったので、自分のそれまでの限られた経験を応用して、後は、まさしく、自分の直観を頼りに思いついたことを下敷きにして枝葉を広げ、計画書を練り上げることもよくあった。このやり方が正解なのだろうか、それをやるだけの力量が自分にあるのだろうかと逡巡したとき、岡村の言葉を思い起こすと、不思議と勇気がわき、励まされたように思う。
仕事のとっかかりのときだけでなく、仕事に取り組んでいる最中にも、この言葉を思い出すことが度々あった。仕事が軌道に乗るのは好ましいことであるが、ルーチン化が進むと、いつのまにか惰性で機械的に業務を消化するだけになりがちである。著しい場合は、ひたすらやりとげることだけに心を奪われている間に違った方向に向かい目的を見失ってしまうことも無きにしも非ずである。そのような状況に陥ったときも、この言葉は原点に立ち返ることを思い起こさせる手助けになったと思う。
マハトマ・ガンジーの言葉に、「目的を見つけよ、手段は後からついてくる(Find purpose the means will follow.)」というものがある。岡村の言葉と相通じるものであり、常に、目的は何かを問い直すことと、間違っても、目的と手段(目標)とを取り違えないように心掛けることの重要性を語っている言葉であると、折に触れ思い起こすようにしている。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。※〝社史〟の冒頭には必ずと言ってよいほど「経営理念」があるので、これを編集の基本コンセプトとして意識しておくことが大切です。