何か新しい環境に入るとき、自分が意図的にそれを選んだならば、不安はあるものの心の準備ができるので、何とか克服できる。しかし、自分の意志とは関係なく、不意を突かれたように予期せぬ境遇に陥った場合は、不安を通り越して恐怖さえ覚える場合がある。何を信じて進めばよいのか、何を心の拠り所にすればよいのかわからなくなる。そんなとき、迷いを払拭し、一歩踏み出す勇気を与えてくれる言葉がある。
サラリーマン生活において、突然、予期せぬ環境に放り出されたり、未知の領域に飛び込まざるをえなくなったりすることは、誰しも一度や二度は遭遇するものである。組合委員長、組織の長、難解な業務のプロジェクトマネジャーなど経験したことのない責任ある立場に突然立たされたときなどがそれに当たるが、最も顕著な例は、遠隔地への長期出張、転勤であろう。この場合は、立場が変わるだけでなく物理的移動を伴うので、生活環境も一変することになる。環境変化が著しいので、その分不安も大きく、当然、心細いことこの上ないという精神状態になる。
そんなとき、心の拠り所となるのが「人間(じんかん)至る所に青山あり」という言葉である。この言葉は、幕末の僧侶、月性が故郷を後にするときに詠んだ句だと言われている。人間(じんかん)は人の住むところ、青山は墓(骨を埋める場所)を意味しており、人間は大志を抱き、故郷を出て大いに活躍せよという教訓と解釈されている。自分がこの言葉を初めて聞いたのは直属の上司からであった。その人は開発途上国でのいくつもの長期間の海外赴任の経験を有している人だったので、説得力があり、心に沁みたのを憶えている。
自分も45年余りのサラリーマン生活の中で、急遽、責任ある立場を拝命したり、突然、転勤命令が出され準備する時間的余裕もなく赴任したりしたことが何回かあった。20代の終わりの、結婚して間もない頃、急遽、ネパールへの出張を命じられた。初めての海外出張で、経験もまだ十分とはいえなかったので、専門家として役目を果たせるか不安であった。30代終わりにピンチヒッターとして韓国へ出張したときは、新設予定のダムの埋設計器に関する技術的判断と、それに基づく提案内容を顧客に説明する必要があり、通訳を通してうまくいくか心配であった。いずれの海外出張も、突然で、全く心の準備ができていない状態で現地に赴任した。一か八かのぶっつけ本番で仕事に取り組んだが、その度にこの言葉が思い出され、励まされたように思う。40代の半ば、筑波に研究開発責任者として転勤したときは、研究開発自体初めてだったのと、ほとんど知人もおらず、まるで別世界に放り込まれたようで、しかも、初めての単身赴任だったこともあり、どう振る舞ってよいか思い悩んだ。そういうときも、この言葉を聞くと、目から鱗(うろこ)が落ちたようで、迷いが払拭され、腹が決まり、勇気をもって一歩踏み出す気持ちが湧いてきたのを憶えている。
サラリーマン生活の終盤戦で、組織の長になり、逆に、長期出張や転属転勤を申し渡す立場になってからも、不安そうな部下に対して、励ましの意味を込めて機会あるごとに、この言葉を言い添えるようにしていた。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。※【社史】は経営史ですが、社員にも経営者意識が否応なく求められるのがこのエッセイのような場面です。勇気と達観と激励を込めた最後の一文が感動的です。