サラリーマン生活において、思いがけず、何かを成し遂げなければならない立場に立たされ、しかも、達成のために乗り越えなければならない大きな障壁がある、そんな状況におかれることは、何度か経験するのではないだろうか。先行きを考えると、余りのプレッシャーで押しつぶされそうになるが、それをはねのけ何とかその難問を突破するには、中途半端な取り組み方ではだめで、腹を括(くく)る必要が出てくる。そんなとき、覚悟を決めるのを助けてくれるのが「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉である。この言葉は、平安時代中期の僧侶、空也上人のものと言われている。その意味するところは、「一身を犠牲にする覚悟で当たってこそ、窮地を脱し、物事を成就させることができる、命を捨ててもいいという強い覚悟で立ち向かえば、必ず活路を見出せる」というものである。
現役時代、30代の終わり頃、仕事上、難題に遭遇し、この言葉に励まされたことがあった。当時、勤めていた会社は支店展開が十分でなく、本社から地方の案件に仕事をしに行くことも少なくなかった。そんなプロジェクトの一つで、業界の中で「三奇人」と呼ばれていた顧客と巡り合ったことがあった。年度の終わりも近い2月頃、仕事も8割方終わっていたので、意気揚々と楽勝気分で打ち合わせに訪れたとき、初めて新たに役所側の担当者になったその人に出会うことになった。なるほど、聞きしに勝る威圧感のある人で、その人がいるだけで、事務所内がぴりぴり張り詰めていて、まるで、恐怖政治のような雰囲気が漂っていた。予想にたがわず、我々、受注者に対しても大変厳しいものがあり、開口一番「お前ら、これで仕事が終わったと思ったら大間違いだぞ」とどやし付けられ、早くも洗礼を受けたような気分になった。遠隔地だったので、朝一番の飛行機に乗り、朝9時の打ち合わせに臨むのだが、本人が納得しないと帰してもらえず、2泊、3泊になるのがざらであった。他の受注者が空港で網を張られ引き戻されたという話を聞いていたので、運良く帰京の許可が出て羽田行の最終便を待つ間も、いつ構内アナウンスがあるかと気が気ではなかった。そのようないつ終わるかわからぬ際限のない打ち合わせが何回か続くうちに、部下にも疲労感が見え始め、徐々に現地へ行くのを渋るようになっていった。関連した仕事を受注した他社の担当者がノイローゼ気味でぜんぜん顔を出さなくなったとの噂も聞き、何とかプレッシャーだけは肩代わりして、なだめすかして仕事を進めるしか仕方なかった。
その人は技術的にも厳しく「一般的」とか「何々先生の見解」というのを極端に嫌い、常に難題に対しても根拠を明らかにすることを要求した。それまで複数の案件を掛け持ちでやっていたが、東京にいるときも始終電話がかかってきて宿題が出され、回答までの時間の期限を切られたので、とても他の案件をやる時間などない状態に陥った。その人は簡単にはOKを出さないので作業は遅々として進まず、どうしたらこの難局を打破できるかほとほと困り果てたが、既に、采(さい)は投げられており、この人と心中するつもりでやらない限り、この仕事は終わらないと覚悟を決めざるを得なかった。
最終手段としては、採算度外視で、自分の知己の中から、その人に太刀打ちできる人間を集めるしかないと腹を括(くく)ったが、技術レベルが高く、人との対応が良く、しかも辛抱強いという三拍子そろった人間などそう容易く見つかるわけではない。仕方なく、各人の利点を活かし、欠点を補うように複数の人間でグループを作り対応することにした。そんな状態が3ヵ月位続いた頃、その人も徐々に手応えを感じ始めたらしく物事が徐々に決まり始めた。あるとき、いつも通り事務所で缶詰になり仕事を終えた夕刻、その人に突然呼ばれ「今日は俺を酒の肴にして飲めばよい」と言われた。耳を疑ったが、時間はかかったものの、こちらの誠意が何とか伝わったようで、「やっと、この仕事も山場を越えたか」と胸を撫でおろした。その人をよく知る他社の人から「あの人と付き合えたら10年はどんな仕事も大丈夫だよ」と言われたが、結局、それから退職するまでの約30年間、それほどの人には会わずじまいであった。
長いサラリーマン生活の中で、一度や二度は予期しない悪い境遇(立場)に陥ることがある。そんなときは、自分の置かれた環境を嘆くのではなく、決して逃げずにその環境にどっぷりつかり、暗中模索になるかもしれないが、不退転の覚悟でひたすら必死で取り組むしかない。そうすることにより、「死中に活を求める」というわけではないが、その姿勢がいつの間にか周囲に伝わり、やがて道が開けるものだと思う。何事も中途半端な取り組み姿勢では、「腰掛仕事」であることを相手に見透かされてしまうし、いつも浮足立って故郷(東京)の方を見ているようでは、地に足がついていないことがわかってしまうものだ。身を挺して取り組まないと誰もついてこず何事も成就しないものだと経験上感じる。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。※【社史づくりにあたっても、企業トップなどから非常に厳しい対応を求められることがあります。最も難しいのは、その人が何を求めているのかが完全にはわからない場合で、考えられる対応案を提示しても「違う」「々々」と否定されるばかりで、手の打ちようがなく思われるほどになることもあるものです。こういうときに「逃げる」気になっては事態は決して好転しません。逆に、何を求められているのか頭が腐るほど、しかし冷静に誠実に、考えに考えて、「これでどうですか」「々々」と攻め返すことこそ最善の対応です。とにかく逃げずに全力で対応していくことで何らかの形に発展させていけるものです。とことん付き合って、相手の望むものを身も心も総動員して実現してこそ社史制作を拝命した担当者というものです。相手を理解しようとする情熱と良心と度胸で、真正面からぶつかっていきましょう。