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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

56.心に沁みるあの言葉-その10- 「命までは取られない」(会社上司)


 この言葉は、お経の中の論語にたとえられる釈迦の人生訓を記した詩句と言われている。法句経の中の「人間に生まれること難し、やがて、死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難し」という一節がもとで、その意味するところは、平たく言えば、人として生まれたことに感謝して生きようというもので、一般的に感謝を表すときに使われるものとのことである。

 会社に勤めていたとき、直属の上司ではなかったが、折に触れて、この言葉を引合いに出す人がいた。その人は他部門のトップの職にあり、空手の使い手で社内では武闘派として通っていた。30代の終わり頃だったと記憶しているが、メロンの水耕栽培の仕事をしたことがあった。土木屋の自分としては全くの畑違いであったが、その本部長が背水の陣で自分の所属していた部署に乗り込んできて、「自分の部署では手に負えないが、かといってお得意様なので断るわけにもいかないので、その仕事を引き受けてほしい」と、捨て身で直属の上司にお願いしに来たのである。上司からそのことを聞いたが、こちらも専門ではないので自信がないと上司に告げると、直接、その人の所に連れていかれた。

 顔を合わせるや否や、その人は「命まで取られるわけではないから」と言って、一向に引き下がらず、しばしのやり取りの後、やむなく、上司の判断で引き受けることになった。初め乗る気がしなかったので、半ば居直りの境地で仕事にとりかかったものの、やり始めてみると、案の定、その仕事は土木以外に農業、化学、電気など複数の専門家を束ねる必要があり、その調整だけで大変苦労した。当然、採算的に合うはずもなかったが、1年近くかけ何とかやりとげ、社としての面目は保つことができた。個人的にも「多少専門が違っても、やる気になればなんとかなるものだ」と自信もついた。

 その仕事をやり終えた後も、いくつかの仕事で、精神的に追い詰められたことがあったが、如何に先行きが不安でストレスがかかったときも、「たとえ失敗したり、上手くいかなかったりしても、命まで取られることはない」と自分に言い聞かせると、「何も戦闘に行くわけではない。たかが何々ではないか」と思えてきて、不思議と腹が据わってくるという経験を何回かした。

 特に、謝らなくてはならないときなど、ペナルティーを背負って、対応しなくてはならない場合に、この言葉に助けられたことがあった。40代の初め、課長になり始めの頃、大雨に伴う土砂崩れで人災になり、前任の課長が担当した落石防護工が原因ではないかとの疑いがかかり、警察から呼びだされたことがあった。覆面パトカーに乗せられ現場に連れていかれる道すがら、まるで容疑者扱いのような警官の口調に緊張はピークに達し何をされるかと不安になったが、この言葉を思い出し何とかなると思えてきたのを憶えている。そのときも、事態が収束するまで、相手から難解な注文が出され、それに応えるために大変な手間を要したりしたが、命を取られることに比べれば数倍楽であると思うと、安堵でき何とかなると楽観的な気持ちになれた。以来、窮地に陥ったときは、いざとなったら、最後の砦として、この言葉を思い起こし、心を落ち着かせるようにしている。



風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※社史は基本的に会社の「経営史」ですが、その最先端は会社全体の経営者でなく、経営者意識を持った現場担当社員ということになります。なんとかしてやりとげなくてはならない。しかしその条件が整っていないというとき、それでも全力で立ち向かうという局面は実は決して少なくないのです。企業経営全般も、現場対応も、経営(マネジメント)なのです。「経営史」である「社史」には、両方がバランス良く取り入れられなければなりません。】