公開日 2025年5月30日
この言葉は、母が、日常生活の中で諸々の困難に遭遇したとき、子供として「母は、いったいどう対処するのだろうか」と、固唾を飲んで見守っていたような場面で、よく口にしていた言葉である。母は、関東大震災があった翌年、仕立屋の娘として浅草に生まれた。けして豊かとはいえない家庭で育ったが、兄弟の中でも頭が良かったので、女学校を出て教師の道に進んだ。戦時中、福島に学童疎開に行き、そこで知り合った父と結婚した。戦後、田無(現西東京)にあった旧中島飛行機の社宅が払下げとなり、そこを安く買って居を構え、父の両親と同居しながら、4人の子供を育てた。戦中戦後を潜(くぐ)り抜けた人は誰でもそうかもしれないが、食うや食わずで明日のことを考える余裕もなく、その日を何とかやりくりするのがやっとだったのだろうと思う。戦争自体が、自分ではどうしようもないことで、受容するしかなく、その中で良かれと思うことを必死になってやっていくしかなかったのであろう。そんな原体験があって、この言葉が生まれてきたのではないかと思う。
世の中、予想だにしない思いもよらないことが起きるものである。いつも予期せぬことが起きるのが常であるようにも思える。人生はそういうもので、そうそう先々を読めるものではない。先行きは不透明で、到底伺い知れないもの、予測しがたいものである。そして、思いがけずに起きる事象は、良いことばかりではなく、災難と呼べるような悪いことが多く、自分の努力だけではどうしようもないことが少なくない。「なんで自分がこんな状況に」と思っても、もはや、後戻りできない。時計の針を戻すことはできない以上、いかにそれが重い事実であっても認めざるを得ない。そうなると、流れに身を任せていくしかない。大きな時代の流れに抗(あらが)うことはできない。しかし、現実問題として、ただ漠然と放っておくのではなく、やはり、降りかかる火の粉は払わねばならない。その場で、知識と経験を総動員して、具体的に行動することを決めて、対処していかねば先に進めない。観念的になっているのではなく、起こってしまった事実は、如何に許しがたいことであっても受け止めねばならない。そんな状況に置かれたとき、居直りとも聞こえるこの言葉は、母にとって、逆境の中でも、逞(たくま)しく生きるための術(すべ)、心の拠り所となっていたのではないかと思う。
仕事の上でも家庭内でも予期せぬことは起きるものである。仕事に取り掛かった時点から、社会情勢などの外部環境や、社内体制などの内部環境が大きく変わり、前提条件が覆ってしまい、振出しに戻り一から再チャレンジしなくてはならないということも無きにしも非ずである。子供が大きくなるに従い、親の期待とはかけ離れ、思いがけない方向に進んでしまい、その対応に追われるということも往々にしてあるものである。それらが、よりによって重なり、「なんでこんな時に」と、タイミングの悪さを嘆くこともある。しかし、放っておくと、状況がますます悪くなるのが目に見えている以上、それを克服し一歩踏み出さねばならない。そんなとき、半ば諦(あきら)めの境地とも取れる母のこの言葉は、時として、思わぬ勇気を与えてくれるものである。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「あきらめる」は漢字で「諦める」と書きますが、実は「諦」は希望を断念してしょんぼりするという意味でなく、「大きな真理を知る」「悟る」ということを意味する宗教的な言葉です。大きな不幸が起これば人は困窮もし、悲嘆もします。しかしそれが大きな真理に基づくものとして基本的に織り込み済みものであると捉えることで、心の中で解決させること可能となり、「負けない」気力も出てくるということです。“社史”にもそういう局面は数々現れます。何が起きても気持ちで負けないことで人間は人間として「生ききる」ことができることが学べるドラマになります。】