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社史編纂・記念誌制作

風間草祐エッセイ集

62.心に沁みるあの言葉-その16- 「過程は運動であり、目的に至る過程そのものが大事である」(小田 実)

公開日 2025年6月9日


 長い人生において、誰しも世の中の矛盾や不条理に出くわすことは、何回かあるのではないだろうか。そんなときは、それをどのように頭の中で整理したらよいのか、目の前で起きている出来事をどう考えたらよいのか、どう解釈すればよいのか大いに迷うことになる。自分の知識や経験を総動員して自問自答しても、なかなか解決策を見出すことができない。鶏と卵どちらが先か、何が原因で何が結果か、どちらが目的でどちらが手段か、どちらが善でどちらが悪かなどの判断が俄にはできないものである。そういう難問に遭遇し八方ふさがりになり考え込んでしまったとき、それを解き明かすのに手助けになった言葉がある。

 冒頭の言葉は、学生時代に読んだ小田実の本の中に記されていたものある。学生運動華やかなりし頃、混乱の中で様々なセクトが台頭し、自らの主張をアジテーションし、街頭デモや、場合によっては非合法といわれるような活動も繰り返していた。そんな集団の本質を見極めるには、その集団が目的として主張していることや引き起こした出来事ではなく、そこに至る過程の行動様式に注目すべきであると小田は主張していた。結果の良し悪しは別にして、その過程、プロセスは、その集団の体質として否応なく残るもので、引き継がれるものだからという理由からであった。

 結果と過程、どちらが大事かという議論は、昔からされてきた。事前と事後の差はあるが、目的と手段と言い換えても良いかもしれない。結果と過程の関係は、勝敗のはっきりする政治家の選挙やスポーツの世界を見るとわかりやすいかもしれない。政治家やスポーツ選手はよく「結果がすべてだ」という。しかし、よく考えると、同じ結果に至ったとしても、それに至るプロセスは色々であると思う。良い例としては、選挙であれば、選挙期間中、街頭に立ち必死で自分の主張を有権者に訴え、それが功を奏した場合である。スポーツで言えば、辛い練習にも耐え身体を鍛えぬき、実力が増し勝利した場合である。一方、悪い例は、買収により票を稼ぎ当選したり、禁止薬物を使用したりして勝利した場合である。結果さえ良ければ、それに至る過程(手段)は問わなくてよいという、マキャベリズム的な考え方をする人は、そういう行為も許されると考えるのだろう。しかし、そういう行為は、社会正義からいって、許されるべきものではないことは当然である。そう考えると、やはり、目的や結果に囚われず、過程(手段)を問題にするのが正常な考え方のように思う。

 成功体験という言葉がある。成功は結果を表しているが体験は過程を表している。人は一つ成功することにより、それが社会通念に照らして良きにつけ悪しきにつけ、また成功しようと努力するものである。意識的か無意識的かは別にして、成功に至るプロセスをトレースし真似しようとするものである。そのようにして、手段や過程、即ち、その方法論は、個人的には身体に沁みつき、組織としては体質として残り否応なく引き継がれるものである。人は成功体験に弱いものである。だからこそ、結果も大事かもしれないが、過程というのは、同等かそれ以上に重要視すべきことのように思う。このことは、およそ、社会における人間の営みにおいて、良い場合も悪い場合も通じるもので、仕事や生活の様々な場面、あるいは社会現象を解釈する際も、物事を正確にとらえる上で、持っておくべき重要な視点であるように思う。





風間草祐エッセイ集 目次


※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「社史」は会社の経営史ですが、それは常に他社との競争の歴史でもあります。しかしその競争は多くの利潤を得た会社が勝ちで少ない利潤の会社が負けという競争かというと必ずしもそうではなく、実は「こんな会社でありたい」という「理念」があって、その実現をもって勝利とする競走で、「自由競争」の「自由」にはその意味も含まれるべきであると牧歌舎は考えています。人間対人間ということで考えた場合、よりたくさんのお金を手に入れた人が勝ちではないことを考えれば、それは自明のことと言っていいでしょう。「生きたいように生きる」「ありたいようにある」ことができればそれは「勝利」なのです。本エッセイで語られている「過程が大事」とはそういう意味だと考えられます。自分が自分として存続できることを各自が目指せることが大事なのであり、勝者が敗者を支配する状態が目指される競争社会というものは、人間の叡智が置き去りにされた世界ということになるでしょう。】