更新日 2025年10月25日
この言葉の内、「虚心」は、心が「空」であること、つまり、心に先入観やわだかまりがない状態を表している。「坦懐」は、「懐」である胸中が、「坦」、つまり「平」であること、心が安らかであることを表している。従って、「虚心坦懐」は、わだかまりや先入観がない平静な気持ちを表していることになる。
会社の上司に、「虚心坦懐」を座右の銘にしていた人がいた。人の上に立つようになると、周囲から色々な情報がもたらされる。その中には、善意のものばかりでなく、悪意のあるものも含まれている場合もある。誘惑も多く、ときには、ある方向に誘導しようとする情報操作といえなくもないものも無きにしも非ずである。そんなとき、自分をしっかり持っていないと、いつの間にか、誰かに操(あやつ)られてしまっているということにもなりかねない。そうならないために警戒することは身を守る上で必要なことではあるが、疑心暗鬼になり、失敗を恐れるあまり度が過ぎると人間不信に陥り、猜疑心の塊のようになってしまうことになる。その人は、そういう精神状態に陥りそうなときに、自らの心を平静に保つために、「虚心坦懐」という言葉を思い起こしていたようであった。
人は誰しも、自分なりの価値観で他者を判断しようとする。初対面の人と会うときなども、相手を自分の尺度で分類し、それを物差しにして相手に接しようと思うものである。用心深い人の場合は、相手の学歴や経歴、家族構成までも事細かに下調べして、自分がラベル的に相手より優位か劣位かを予(あらかじ)め知って、いかに話を優勢に運ぶか作戦を考えてから人に会う人もいるようである。いずれにしろ、人と会うときは、白紙でなく、何らかの先入観を持ち、ある種身構えて臨むものである。そして、先入観は、大概、良い印象ではなく悪い印象である場合が多く、人の噂や評判に左右されることも少なくない。先入観にとらわれ過ぎると、第一印象が色眼鏡越しになってしまい、接する度にそれが増長して、終いには、凝り固まってしまうことになる。そのうち、顔を見るのも嫌になってしまい、生涯、和解することはなくなってしまうということも往々にしてあるものである。
これまでサラリーマン生活を通じて色々な人と接する中で、正直言って、噂にたがわず先入観通りの人であったというケースも少なくなかったが、確かに、悪しき側面を持っているということに違いはなかったものの、その一方で、付き合ううちに、意外と、初めの印象とは異なる良い点を発見することがあったのも事実である。むしろ、自分の方が、はなから偏った見方をしていたことに気づき、反省させられることも間々あった。そう考えると、願わくは、人と接するときは、「虚心坦懐」の精神で、最初から予断を持たずに、胸襟を開き、オープンマインドで臨むのが、良好な人間関係を築く上で、望ましい態度であることは間違いなさそうである。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「社史」の中では、ある「人」や「事象」を「評価」しなければならない局面が往々にして立ち現れますが、このときの表現は慎重でなければなりません。「人」を評価するときには「人」に寄り添い、「事象」を評価するときには「事象」に密着することで先入観に影響されない真実を記述することができます。これは全編を通じて大切なことです。こうした記述姿勢は読む人に伝わるものであり、社史の信頼性を高めるものでもあります。書く側の「心の態度」が、社史の価値に直結することを常に意識しましょう。】