更新日 2025年12月10日
不運に見舞われ、何もかもが上手くいかないとき、「俺はどうしていつもこうなのだ」と悩む。もがけばもがくほど、ドツボにはまるように、また失敗を繰り返す。そうなると、気持ちは落ち込み自信も喪失し、もう立ち直ろうとする気力も失せてくる。そんな、コンプレックスの塊となり、打ちひしがれているとき、もう一度頑張ってみよう、リベンジしようと励ましてくれた言葉がある。
人生に運不運はつきものであるが、何をやってもうまくいかなかったり、立て続けに不運が巡ってきたりすると、人間、腐ってしまいそうになる。「俺はなんてついていないのだろう」とため息をつきたくなる。そんなとき、ひょんなことから幸運が訪れると、人は「捨てる神あれば拾う神あり」ということを如実に感じるのではないだろうか。職場においても、自分の方にも責任の一端はあるとはいえ、周囲の人が自分に対してつれなく当たり、四面楚歌のような状態になったとき、ふと、身近な人から暖かい言葉をかけられたりすると、この言葉が思い浮かんでくるものである。長いサラリーマン生活の中では、幾度となく、そういう気持ちを味わうものである。
入社以来4年間勤めた技術研究所から、5年目に本社の新設部署に転属になった。技術研究所時代は他部署から任された試験業務がほとんどだったので、マイペースで淡々と仕事をこなしていれば良かったが、転属した部署は、既存部署からの寄せ集めのメンバーから構成された部署で、予(あらかじ)め用意されていた仕事は皆無であったので、やむなく、各部署をたらいまわしされたいわくつきの案件や、採算性の悪い案件などをやって何とか食いつないでいた。そんな案件の一つに東京都の処理場施設の設計業務があった。主管部は他部署であったが、そこから分担を受け、専門であった地盤処理の部分を担当することになった。仕事を始めるにあたり、当初、処理場は杭で支える構造になっていたが、建設予定地は東京湾近郊の名うての軟弱地盤であったことから、技術研究所時代に培った土質技術を発揮する格好の機会に恵まれたと思い、地盤処理を施した上に、直接、施設を建造する案を提案した。顧客もその案に興味を示し何回か打ち合わせをした結果、半ば了承が得られたので、ほぼその案で上層部まで通ると思っていた。ところが、その後、詳細を詰めていくに従い、顧客の内部事情の変化があったのか、雲行きが怪しくなり、結局、どんでん返しになり、元の杭基礎に戻ってしまった。そうなると、既に大方の図面類は出来上がっていたので、完全な手戻りとなり、主管部署共々大赤字を食うことになってしまった。社内的にも担当者として面目ない気持ちでいっぱいで、しばらくの間、意気消沈していた。
ところが、それから数ヵ月経ったある日、主管部であった部署の部長から突然電話がかかってきた。「同じ顧客から新たな仕事の話があり、どうも地盤変状が肝のようなので、君のところの仕事のようだ」というものだった。赤字になったとはいえ、処理場設計における、自分の孤軍奮闘ぶりを憶えてくれていて、真っ先に連絡を入れてくれたようであった。早速、先方に赴き、顧客に担当者と膝を突き合わせて調査計画案を練り上げていくうちに、仕事の規模が膨らみ、結局、そのプロジェクトは、逆境にあった新設部署を救う大プロジェクトになった。「捨てる神あれば拾う神あり」ということかなと、苦労したのがけして無駄ではなかったと、そのプロジェクトに巡り合った幸運を噛みしめたのを、今も憶えている。
人はよく何かにつけて「ついている、ついていない」ということを気にするものであるが、それは、あくまで主観的な見方であるように思う。冷静になり、客観的に見れば、当てずっぽうのように、物事が起こり続いていくわけではなく、そこにはちゃんとした因果関係や必然性があるものである。故に、いたずらに一喜一憂するのではなく、遭遇した境遇をひとまず受け入れ、そこで最善を尽くすことが肝要で、それが、幸運を呼び込むことにも繋がるものだと、今更ながら思う。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「社史」に関して言えば、今は資本金がゼロでも「株式会社」と名乗って起業できるようになりましたから、自分の目算は正しいはずと考えて多くの会社が設立され、その大部分が倒産や廃業する「多産多死」状況になりました。自己過信から簡単に株式会社を設立し、当たらなければやめるだけというのでは準備や覚悟だけでなく、創業の情熱すら稀薄という、企業社会の質の低下が起こります。生き残ってきた会社はどういうハードルをどう乗り越えたかを記す「社史」の役割はさらに大きいものになると思われます。】