更新日 2025年12月10日
「人間万事塞翁が馬」という言葉は、人生の折節で発生する事象はそれぞれ因果関係があり、幸不幸は、時系列に見て交互に訪れるということを語ったことわざであるが、似たような言葉に「運命は均される」というものがある。この言葉を耳にしたのは、曽野綾子の『運命は均される』というエッセイからであった。「運命は均される」という言葉が、「人間万事塞翁が馬」という言葉と違うのは、発生する事象の因果関係に焦点を当てているのではなく、人の一生は集計すれば、トータルとして帳尻が合うといった点に着目していることである。従って、起こる事象の前後関係はあまり問題としていないということになる。幸福と思っていたことが、その実、不幸を招いたり、不幸と思っていたことが幸福をもたらしたりというのではなく、人生における幸福の量と不幸の量が、概ね、同じになるということを述べたものである。幸福ばかりの人生もないし、不幸ばかりの人生もない、幸不幸は、皆、公平、平等に訪れるということを説いた言葉である。
しかし、ここで留意すべきは、その幸不幸の量をどういう尺度で、どういう基準で計るかという点である。たとえば、金銭という尺度でいえば、若いとき金持ちでも、年老いて貧乏になるとか、若いとき金がなくても年老いて富豪になるということは、生を受けた時点で既に家庭環境に金銭的な格差があることの方が多い世の中で、常識から考えて、早々あることではない。曽野綾子が言っていることは、そういうことではなくて、金があるゆえに暴飲暴食がたたり健康を損ねるとか、名声を得た故に狙われ命を落とすとか、逆に、質素な生活をしていたために健康が維持でき長生きできたとか、両親に先立たれたゆえに奮起し一流になったというようなことで、いずれも、同じ尺度で見れば、幸不幸に変わりはないけれども、見方を変えれば違ってくるというもののように思う。すなわち、何がどう「均(なら)される」のかということを考えたとき、必ずしも、一つの決められた尺度では見ていないような気がする。「均(なら)される」とは価値観という人間の内的問題を考慮した上での話のように思う。その上で、人生における公平や平等を説いているように思う。そもそもどの尺度が正しいかどうかを誰かが決めるわけではないので、むしろ、その人が幸せ、喜びを感じることができる価値観をいかにして見出すかということに重きを置いた考え方のように思う。
振り返ると、これまで多くの人の人生を傍(はた)から眺めてきたが、第三者である他人から見て、外観的には何の変哲もない人生のように思えても、あるいは人も羨(うらや)む幸せそうな人生に見えても、はたまた、逆に、気の毒に見える不幸な人生に思えても、当の本人は、そういう一つの尺度で見た客観的な事実とは関係なく、あくまでも主観的で全く違う感じ方をしているということは往々にしてあるものである。他人がどう思うかは勝手であるが、本人がどう考えているかは、他人が窺(うかが)い知るべくもなく、また、あえてそれを知る必要性もないものである。自分の人生をどう解釈するかは、あくまで本人の主観的な見解によるものであることが多いと思うが、それで一向に構わないような気がする。客観的事実はどうあれ、それで本人が救われているなら十分で、それが人生というものの偽らざる姿であるような気がしている。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「社史」に関して言えば、今は資本金がゼロでも「株式会社」と名乗って起業できるようになりましたから、自分の目算は正しいはずと考えて多くの会社が設立され、その大部分が倒産や廃業する「多産多死」状況になりました。自己過信から簡単に株式会社を設立し、当たらなければやめるだけというのでは準備や覚悟だけでなく、創業の情熱すら稀薄という、企業社会の質の低下が起こります。生き残ってきた会社はどういうハードルをどう乗り越えたかを記す「社史」の役割はさらに大きいものになると思われます。】