更新日 2026年8月7日
現役時代、複数の上司から、新しい仕事を与えられたり、転勤を命じられたりしたときに、「君にとって良い経験になる」という言葉が、説得するときの慣用句のように必ずといってよいほど添えられた。その後、実際に新たな仕事に挑戦してみたり、転勤も経験してみたりすると、なるほど、「体験がものをいう」という言葉は一理あると合点がいった。「百聞は一見にしかず」という言葉があるが、さらに見るだけでなく自ら体験すれば理解が深まることは確かである。何故体験がものをいうかというと、五感を通して肌で感じた周辺記憶があるからである。身に付くということは、頭だけでなく身体全体で覚えることである。いくら、机上で学んで頭では理解したつもりでも、それはあくまで論理的に導き出された知識で、五感で感じとるものとは、本質的に臨場感が違うものである。何事も自ら体験しないと当事者意識が伴わないので、深くは身に付かないものである。端的に言えば、知識だけでは、事柄の重さ、あるいは重み付けはわからない。故に、知識だけで優先順位をつけようとすると、とんだ間違いをしでかすことになる。身に染みて体験したことは、知識と違って忘れようと思ってもなかなか忘れないものでる。五感を通して感じた肌感覚みたいものが残っているからで、実際に、現場で役立つ本当の実力を身に付けるには、体験が不可欠である所以(ゆえん)である。たとえば、医者を例にとれば、患者を診察し、検査データから、症状を把握し病名を当てる際、最後は今まで経験した臨床事例を頼りにするものである。理論だけでは「そうなるはずだ」まではいくのだが、治療方法を決め、実際に行使するという決断に至るには自信が持てないものである。自分の専門とした土木分野も経験値がものをいう世界で、理論に基づき計算し設計するわけであるが、それで本当に間違いないかと判断に迷ったときは、いつも、自分がそれまで経験した原点に立ち返って考えるものである。
しかし、体験は万能でそれをもとに物事を判断すれば、間違うことはないかというと、そうとも限らない面がある。逆説的になるかもしれないが、人は成功体験に弱いものなので、経験に頼り過ぎた結果、判断を誤ることは往々にしてあるものである。成功体験は、本人にとっては、苦労をしただけ思い込みも激しいので、違う見解に対して聞く耳を持たなくなりがちで、かえって質(たち)が悪い場合もある。歴史上の出来事で端的な例は太平洋戦争で、日清日露戦争を勝利した経験から、欧米に対しても同じ戦法で臨めば上手くいくという慢心が、首謀者の中にあったのではないかと思う。社の研究開発の責任者だった頃、新規事業開発の一環としてバイオマス発電に関わったことがあった。発電でも水力に関しては手慣れていたが、火を扱う仕事は初めてであったにもかかわらず、水力発電のやり方を踏襲し進めた結果上手くいかず、途中で暗礁に乗り上げてしまった。競争相手として従来の同業他社の動向ばかりを気にしていたが、いざ頭をもたげてみたら、競合しているのは異業種の企業ばかりで、それらの企業はとっくに一歩も二歩も先を進んでいたことがわかった。まさに「井の中の蛙大海を知らず」状態で、外界を知らずに独りよがりであったと反省させられた。身近な例としては病が挙げられる。自分も36歳のとき大病を患ったが、それまでは一週間に一度程度は徹夜をしたり、忙しくて時間がないときは昼飯を抜いたりしていたが、それでも平気だったので、その生活スタイルは永久に続けて大丈夫だと思っていたが、思いがけず急性肺炎に罹(かか)ってしまった。年齢と共に体力も落ちるという老化というファクターに気づかず無視していたのが根本的原因であった。
このような判断ミスは、自らの経験は、所詮、時間的、空間的に限られた前提条件のもとでの経験則であることを見失っていたことに起因している。もっと長いスパン、もっと大所高所から見れば、答えは違っていたはずである。多くの場合、経験を過信した判断は、経験を積み重ねた結果得られた、言わば帰納的に導かれた経験則がもとになっている。もっと大きなマクロな視点から俯瞰するなどの、言わば演繹的なアプローチが必要だったのであろう。同じ過ちを繰り返さないためには、時代の変化を読み取り、自分の考えに固執することなく、他者の体験にも注力し意見にも耳を傾け、常日頃から、先入観を持たず、物事を素直に受け止められる、感受性を養っておくことが肝要であるように思う。
※風間草祐
工学博士(土木工学)。建設コンサルタント会社に勤務し、トンネル掘削など多数の大型インフラ工事に関わる傍ら、自由で洒脱な作風のエッセイストとしての執筆活動が注目される。著書に『ジジ&ババの気がつけば!50カ国制覇—働くシニアの愉快な旅日記』『ジジ&ババのこれぞ!世界旅の極意—ラオスには何もかもがそろっていますよ』『サラリーマンの君へ—父からの伝言—』『ジジ&ババの何とかかんとか!100ヵ国制覇』『すべては『少年ケニヤ』からはじまった: 書でたどる我が心の軌跡』『人生100年時代 私の活きるヒント』『風間草祐エッセイ集 社会編: —企業人として思うこと—』など。「社史」を完成した企業の記念講演の講師も受託する。【※「社史」に関して言えば、社員の仕事というものは必ずチームワークなのだから、協調性が保たれてこそ良い仕事ができるわけである。しかしメンバー各々は各々の考え方や価値観をもっているので、それがチームワークを阻害する場合は何らかの工夫が必要になるという話。そして一つひとつのの「達成」こそが小さな思いやりと協調の大切さを自覚させる機縁となって、人は成長していくのである。そのことが自ずと伝わる社史こそ良い社史であり、そういう会社こそ良い会社なのである。】