取材の際、経営者あるいは社史編纂の担当者から「ウチはこれといった出来事は特になくて・・・」とよく言われる。
大概の場合、「いいじゃないですか、それが一番ですよ」と返答する。本当にそう思う。本能寺の変さながらに社長が専務の謀反に遭ったとか、黒船来航のごとく外資に乗っ取られたとか、大河ドラマになるような波乱など、なかなか起こらない。
少し前にクリーニング・リネンサプライ会社の社史ダイジェストを書いた際、全編を一度読んだだけで、内容がすんなりと入り込み理解できてしまった。身近な業種だったことももちろんだが、なによりも、会社の経営の軌跡が人の成長過程と同じように思えて理解しやすかったのだ。
我々人間が還暦なり古希なり、人生の節目を迎え、これまでを振り返ったとき、「それほどドラマチックではなかった」が、色々あったことにしみじみとしつつ今日あるを感謝する。同社もその歩みがの「それほどドラマチックではなかった」にせよ、創業後は着々と成長し、試練を乗り越えて発展し、成熟期を迎え、さらに未来を展望する段階に至っている。
「それほどドラマチックではなかった」こと、冒頭の「これといった出来事は特にない」ことは、端的に言えば“平凡”と表現できるということだ。社史は“平凡”を淡々とした事実の記録とし、取材を経て、山あり谷あり、喜怒哀楽という人間的な魅力も併せて記す。
“平凡を非凡に努める”は、某企業の創業者の言葉であるが、平凡を長く続けていくことで、やがてそれが非凡になるという教えだ。
先述のとおり、社史は、淡々とした事実の記録と人間的な魅力を記すものだ。さらに加えれば、会社が「好ましい平凡」を続け、50年なり100年という歳月に結実することが非凡であったことを未来の人たちに伝える、それこそが社史の持つ説得力の最たるものだと思う。
ライター S.S.