1年ほど前、プラスチック製品の開発・製造を手がけるS社の50年史ダイジェストを書かせていただいたが、全編各章インパクトのあるタイトルだった。第1章は『火の玉になれ!・・・』、第2章は『踊るガキ大将・・・』、最終章は『世界一の未来図』と、こんな感じだ。どこかで見たような、ともすればパクリかパロディかと思ってしまう。
「社史はその会社の孜々たる歩みを真面目に、地道に、敬虔に、シリアスに記述するのが基本」は、わが師の教えである。名は体を表すではないが、中途半端にウケをねらったとしか思えないタイトルは、社史として正しいのだろうか。そんなことを思いながら全編を読み込んでいくと疑義は晴れていった。
面白さは正しかった。火の玉になった人たちも、踊るガキ大将も、世界一の未来図を創る人も、社史の中でリアルに存在し、その名の如く活き活きと描かれていた。取材を受けた人たちが、聞き手であるライターに身振り手振りで楽しげに話す姿を容易に想像できる。語り手が当事者かそうでないか、実体験か伝承か、は関係ない。語り手の熱量にライターが共振し、対話からタイトルが生まれ、その躍動感のまま筆をとったのではなかろうか。
加えて面白さが正しい時代だったのだと思う。S社の社史は50年を振り返る。その前半、日本は東京オリンピックを梃子に高度経済成長期を迎え、所得を10年間で2倍にする国民所得倍増計画を7年間という短期間で達成してしまう国となっていた。
人々は一億総中流の豊かさを求め、取りつかれたように火の玉になって働き、ガキ大将だった社長が工場と組織作りに奔走した。高度成長のひずみもその後の反動も大きかったが、それは間違いなく活気溢れるあの時代の職場の日常で、たくましく生きる人々の姿だ。これを澄まし顔の言葉に置き換えたら、あの時代が伝わらないだろう。
「社史も含めて歴史の書物が面白いとしたら、その内容は本質的に正しさに迫る面白さ以外にはない」とは、これもわが師の教えだ。私の知っている昭和がどこかの社史の中で誇張され脚色されていたら虚しい。平成が終わり時代は令和となった。今回の仕事で社史ライターの端くれとして、時代考証を含め、正しく書くことが大切な使命と改めて感じた。
ライター S.S.