社史制作(会社史編纂)・記念誌制作、個人出版支援の牧歌舎

社史編纂・記念誌制作

社史・記念誌の参考事例集

s−S社50年史2

要素内容頁数写真色数備考
口絵等114
挨拶224
11644
中扉
201
目次
503
通史 第1章 火の玉になれ! 〜もたらされた未来、シルクスクリーン印刷  ****年、当時20歳の社長は、金属製の銘板を製造するメーカーに勤務していた。当社創業のきっかけは、取引先であった貿易商社M社のB氏から得た情報に端を発する。それは、「真空管ラジオの時代は終わる。必ず次にトランジスタの時代がやってくる。新しいラジオを量産するために、レベルメーター用スケール板の市場は長期的な成長が見込める」だった。  ****年*月、ガキ大将がひとり起業した。持っていたものは、もたらされたチャンスと負けん気、そして希望。社長25歳、婚約者である○○(後に夫人・現取締役)は一緒に働くと言ってくれた。「火の玉になって働こう」と決意した。  トランジスタラジオのメーター板は、小型軽量化と洗練されたデザインが求められた。それなら素材をプラスチックにしたらどうだろう。先述のB氏と話し合い、商品の構想が膨らんだ。実現にはシルクスクリーン印刷の技術が不可欠であった。問題は社長がその技術を持っていないことだった。  まずは、従来商品のアルミニウムのメーター板を生産し、同時にシルクスクリーン印刷を勉強することにした。3年ほど休日はなかった。しかし、シルクスクリーン印刷はうまくいかなかった。社長は頭を切り換えて技術者を雇うことに決めた。  その頃、B氏が新しいプラスチック製メーター板の図面を持って現れた。現在でいう透過商品である。それには難燃性素材が求められ、硬質塩化ビニールが規格をクリアできそうだとわかった。さらに規格に合いそうな新しいプラスチック素材を開発中のMGK社を知った。このことが後に当社とポリカーボネートを繋いだのである。  当社の主力商品はまだアルミニウムのメーター板だった。独創的なデザインで品質が安定していると評判になり、飛ぶように売れた。弟○○(初代常務)を呼び寄せ、総勢8名でフル稼働した。そんな折、硬質塩化ビニールのメーター板をアメリカに輸出する際、トラブルが発生した。貨物船の船底に置かれた商品が高温で湾曲してしまったのだ。開発企業からポリカーボネートの試作品ができたと連絡があったのは、その少し後だった。  創業から無我夢中の5年間だった。 第2章 踊るガキ大将  〜初の調光技術、自動車産業へ進出  ****年*月、○○市に工場を建設した。30歳の社長は、必ず日本一の銘板メーカーになると心に誓った。同時に年間売上目標を定めた。操業を開始すると目標をやすやすと超えた。従業員は20数人に増えていたが、まだ個人事業だった。  ****年、当社は有限会社S銘板製作所として第二のスタートを切った。****年、新工場を建設した。新工場の目的は、シルクスクリーン印刷の設備をより充実させることにあった。  市場はアルミニウム製品とプラスチック製品の比重が逆転しており、当社の生産体制は、時代のニーズに一歩先駆けて整った。  新工場を建てた年、当社の未来を拓く革新的な技術『○○塗装』も開発された。それは、創業時からこだわり続けた透過商品の完成度を「調光」の技術により飛躍的に上げた。これを機に当社は自動車部品の世界へ足を踏み入れることになった。  ****年、CK社から初めて自動車メーターの注文がきた。このころ初代常務は、新たな調光技術である『○○プリント』の開発に取り組んでいた。インパネのデザインには、ユーザーが驚くほどの美観が求められる。この時から当社は自動車内部の「美」のために、技術を革新し続けることを宿命付けられたのだっ た。  ****年、○○工業団地が完成した。新工場に従来の設備を敷設し直し、自動化ラインを接続した。社員数は70人ほどになっていたが、常に求人をしていた。その頃、社内で不穏な動きがあった。雇い入れた社員が労働争議の準備をしていたことがわかった。  社長は、それまで社員に対して「黙って俺についてこい」というやり方だった。けれども100人規模になろうとする時、社長の考え方を理解している者は決して多くはなかった。 「もうガキ大将ではいられない。きちんとした組織作りをし、各部に責任と権限を渡し、皆で一丸とならなければ」と、痛切に思った。  社長は経営者として大きな転換期を迎えた。組織を改革するに当たり、生産管理のエキスパートやトップセールスマンなど優秀な人材を登用、またQCをTQCに改め、さらに社是を制定した。 第3章 新生サカイヤで世界へ  〜グローバル化時代へ、『○○○』開発  ****年、○○○○(二代目常務)が、社長から受けた使命は、アメリカビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)に食い込むことであった。  ミシガン州デトロイトに事務所兼工場を借り、試練の営業が始まった。しかし、その門をこじ開けることはできなかった。  活路を見いだせたのは、日系企業NSI社の○○○車用ダイアルの量産受注だった。****年*月、アメリカ事務所を当社から独立、SKY社を設立した。  ****年*月、○○県○○市に建設していた新工場が完成した。当初新工場はSKY社向け輸出品の生産が中心であったが、SKY社が****年に自工場を持ったことで、国内のマザー工場としての役割に転換し、当社の高い品質を守り抜くことが工場の使命となった。  また、同時期、当社の屋台骨となる革新的な技術が開発されようとしていた。印刷シートと成型品を一体化した『○○○』である。  ****年、『○○○』をMGK社と共同で日本、アメリカ、カナダに特許を出願した。   第4章 独壇場  〜圧倒的商品力、絞りと『○○○』の融合  1990年、膨らむだけ膨らんだバブルがはじけた。決算書は創業以来最低の数値となった。  ****年、当社の業績は好転し始めた。そのきっかけとなったのが、Y社のヒーコンパネルである。この商品で先述の『○○○』の技術は格段に上がったが、これからは印刷の美観と機能を損なうことなくシートの立体に加工する「絞り」の技術が絶対に必要だった。  絞りには、さまざまな手法がある。担当の○○がこだわったのは、意匠の位置精度と美観だった。他社が真似できない立体・一体ダイアルが作れる設備を求めた。半ば執念の調査でVM社に○○○○絞り機があることがわかった。VM社も快く機械を試させてくれ、担当の○○は手応えを感じた。その機械の製造元であるA研究所に当社仕様の○○○○絞り機を発注した。  完成した○○○○絞り機を工場に導入し本格的な量産体制が整い、○○○車用立体・一体ダイアルと○○車用立体警告レンズの量産が始まった。大躍進だった。立体商品は、この後当社の独壇場となっていった。  ****年、DN社からキーレス(スマートキー)の打診があった。それまでのキーレスは成形した樹脂に塗装を施した物だった。「印刷して、絞って、○○○で成形して…」、そう思った瞬間、副社長はこの商品が当社を次のステージに押し上げると判断した。新しい商品の開発はスピードである。翌朝からキーレス事業をスタートさせた。キーレス事業に参入したときの当社は、未知の商品への臨戦態勢が整っていた。  その後も、絞りと『○○○』を融合させた商品の発注が続き、キーレスも含め、今や当社の主力商品となったのである。  ****年*月、当社はS銘板株式会社より株式会社Sに社名を変更、****年*月、中国に、同年*月、メキシコにそれぞれ拠点を開設した。 第5章 未来へ  〜日本のためにできること、世界一の未来図  リーマンショックを経費節減で乗り越えV字回復を果たした当社だったが、2011年3月未曾有の震災で、同年5月まで実質開店休業状態に陥った。稼働率が7割に戻ったのが6月、11月現在、ほぼ正常通りの稼働に戻った。  日本が戦後最悪の状況に陥っている今、当社が果たす役割は、ものづくりの人材を育成し、「ものづくりニッポン」再生の一端を担うことにあると、社長は考えている。  副社長は、グローバル経済の中で戦うために重要なのは「ブランド力」であると考えている。「当社は加飾で世界一」と言われるブランド力を持っている。  当社10年後の未来図では、営業・生産拠点を東南アジアとアフリカに進出させ、日本、北米、中米、中国を含んで地球の3分の2を被うネットワークを構築している。技術部はさらに発展・深化し、技術開発センターになる。マザー工場には第二工場が立てられ、自動車業界以外の事業部が立ち上がっている。  そして、生え抜きの若者たちがリーダーとして会社を牽引している。  社員ひとり1人が明るい未来を想像すれば、当社は必ずそうなる。 48331中扉、章扉あり
特別企画扉111
座談会871
インタビュー421
一言メッセージ801
寄稿411
資料編801扉あり
年表社内の出来事・日本と世界の動き901扉あり
編集後記社史編纂チーム101
奥付発行:S社 編集:社史編纂チーム101
数字合計
112113