社史制作(会社史編纂)・記念誌制作、個人出版支援の牧歌舎

社史編纂・記念誌制作

社史・記念誌の参考事例集

s−H社50年史

要素内容頁数写真色数備考
口絵等114
挨拶224
11644
中扉
201
目次
503
通史 サービス業(リネンサプライ)H社50年史 通史ダイジェスト 第1章 創業前史 第1節 創業者○○○○  創業者○○○○は、昭和*年、○○県○○町に、8人兄弟姉妹の次男として生を受けた。○○家は運送業で富を築いたが、やがて衰退。母が働いて大所帯の家計をやりくりするが、食べることで精いっぱいの生活であった。  少年期の創業者は、母からの無言の教えを受け取り、家族のことを考える「情けの人」として、その人間性を形成していった。  昭和**年、○○県立○○中学校に入学、卒業後は代用教員として小学校に勤務し、その後、昭和**年頃上京。D社に入社するが、長続きしなかった。しかし、創業者は人生設計を考えていたのであろう、友人とクリーニング屋の開業に至る。昭和**年頃のことであった。 第2節 ○○ランドリー  昭和**年、25歳の創業者は独立を決意、機械と顧客をすべて相手に譲った。決断の速さと潔さは、終生変わらぬスタイルであった。  店の名は「○○ランドリー」とした。順調に見えた独立であったが、創業者には迷いもあった。  店の拡大には合理化が必要と考えていた丁度その頃、ドライクリーニングの機械を知った。「この機械を使えば勝てる」と閃いたが、資金がない。そこで外注に出すことにした。結果は、ドライ物が半減し、営業に時間を回すことができた。それにより注文が増え、外注費を安くすることができ、助職の人数も減らすことができた。  このようにして、次第に業績が向上。昭和**年にはドライ機を購入し、○○に自社工場を建てた。 第2章 創立期 第1節 株式会社○○商会の創立  創業者○○○○は、昭和**年、○○ランドリーを株式組織として、「株式会社○○商会(現社名:株式会社○○)」(以後、当社と記載)を設立した。  社員数は10人前後であったが、昭和**年頃には100人を超えることになる。資本金も昭和**年に*,***万円まで増資された。工場は6工場を開設、さらに、昭和**年本社を創業の地から○○区の○○ビルに移転して本社機能を整えた。  これらの工場開設と本社移転により、当社は町のクリーニング屋からの脱皮を完了した。 第2節 リネンサプライ業の開始  リネンサプライは、昭和25年、日本に紹介され、高度経済成長とともに、拡大の一途を辿ることとなる。  創業者は、個人相手のクリーニング業の弱点を克服するにはどうしたらよいかを考えていたが、その過程でリネンサプライが浮上してきたと考えてもおかしくはない。  当社は、昭和**年頃にリネンサプライ業へ参入した。当時は、リネンサプライという言葉自体知られていなかったが、ホテル・旅館の建設ラッシュと人手不足の到来で、事業は順調に拡大し始め、その後、当社の主力事業となっていく。 第3節 機械開発 リネンサプライの顧客には飲食業も多く、飲食業界では、当時からおしぼりの需要があった。創業者は、おしぼりの貸与を業として始めることを思い立ったが、ネックはその包装にあった。すべて手作業で効率が悪かった。  「こんなに苦労するのだから、機械を作れば売れる」創業者の逆転の発想である。目的は包装機へ移り、早速、技術者を雇い入れて、開発が始まり、昭和**年に第1号機が完成した。翌年、包装機販売のために商事部を新設。昭和**年には400台の売上を達成した。  この自動包装機は、従来の手作業から大量処理技術をもたらし、おしぼり業界が急速に確立されていった。 第3章 試練期 第1節 株式会社○○のスタート  昭和**年、当社は商事部にT社を吸収して、株式会社○○商会として本社より分離。本社社名を現社名の「株式会社○○」と改め再スタートをすることとなった。 第2節 オイルショックの到来  昭和48年、第一次オイルショックが到来、日本の高度経済成長もここに終焉を迎えた。当社は、衣料品、洗剤、重油等の高騰で苦境に立たされ、需要の減退や値下げ過当競争が、収益面に影響をもたらすこととなった。  しかし、当社は、機械設備導入や燃料節約などによる生産の合理化、新規事業の開拓など様々な努力を重ねてこの事態を乗り切った。  このこの時期の新規事業としては、カーペットサプライ事業がある。ホテルのほか銀行等の需要もあり、不況期の当社の経営を援けることとなったが、昭和**年に事業を終了した。 第3節 開発と合理化  この時期には様々な開発も行われた。  リネンサプライにとって、包装は重要かつ基本的な要素であり、昭和**年に開発された○○フィルムは、その後、広く応用されるようになる。  ○○○○は、上述の○○フィルムをごみ箱にセットし、廃棄と袋補充の手間を省いた。東日本大震災で注目されたポータブルトイレも○○フィルムを応用したものである。  立体包装機の開発も革命的な出来事であった。ハンガーに吊られた服がトンネルを通る間にプレスされ、包装される。現在、当たり前に見られるクリーニング製品の姿は、この発明によるもので、○○フィルムとともに特許を取得している。  合理化も行い、昭和**年、最新鋭の連続洗濯機を導入、さらにドレン還元機や最新廃水処理設備も導入した。 第4章 発展期 第1節 本社ビルの完成とCIの導入  当社は、昭和**年、○○区○○に現在の本社ビルを完成させた。正面全面に掲げられた大理石の壁画「○○」は、創業者の弟○○○○画伯の原画によるもので、街路を行き交う人々の目を惹きつけている。  CIは、現社長の○○○○が、社長室長の任にあった昭和**年当時、当社の存在を世に示し、社会的責任を果たすとともに、社員の意識統一を目的に導入を行った。新ロゴマークでデザインを一新したルート車両は、会社のイメージアップに大きく貢献した。 第2節 効率化と多角化  バブル期に入って深刻な労働力不足となり、様々な効率化を図った。  当時、洗濯物は袋詰めにしてトラックに積まれ、60Kg以上の袋を担いで出し入れしていた。そこで、配送の責任者○○○○(現I社社長)は、増員も負荷もなく時短可能なワゴン配送を提案した。ワゴン車に洗濯物を入れて運び、リフト付のトラックにワゴン車ごと載せる。創業者は提案を即決した。  また、工場は自動化を徹底、従業員1人当たりの処理量が1日400Kgから1tに伸びた。  昭和**年、一般クリーニング業を再開したほか、平成*年には、オフィスコーヒー事業を、翌年には健康茶の販売を開始し、サイドビジネスも展開した。 第3節 海外へ目を向ける  昭和62年、急激な円高が進行した。当社は、まだ目を向けることの少なかった中国からの輸入取引にいち早く取り組み、リネンサプライ用の衣料品の大量買付けを開始し、コスト面で大いに貢献することとなった。  創業者は、衣料品買付けのために度々中国へ足を運んだが、そのうちに中国のクリーニング事情を熟知し、中国でのクリーニング会社(合弁会社)設立に踏み切った。この会社への経営参加は、技術移転という役割を果た しながら、平成*年まで続き、創業者の思いは、その後の日系外国人や実習生の受け入れに引き継がれている。 第5章 変革期 第1節 次世代への引き継ぎの開始  平成*年、当社をリネンサプライ業界を代表する企業に育てた創業者○○○○は、会長に就任し、次世代への引き継ぎの準備に入った。  この時期は、バブル崩壊後の不況により、その影響はリネンサプライ業界にも波及したが、当社は経営努力により乗り切り、最新設備を備えた4工場を開設した。  また、当時の機械開発では、○○式乾燥機が最も画期的なもので、乾燥効率が2.5倍となり、重油消費量も大幅に削減された。発案は、当社社員○○○(現当社専務取締役)によるものである。 第2節 ユニフォームレンタルへの参入  現社長の○○○○は、平成*年から取締役の任にあり、新たな事業の可能性を探し求めていた。  ホームクリーニング事業が低迷していた当時、まとまってクリーニングに出されてくる工場や飲食店のユニフォームが目に留まった。 「クリーニングするぐらいなら、これをレンタルしたらどうだろうか」要領はリネンサプライと同様である。  平成*年、当社は、ユニフォームレンタル業に参入、その後も、女性営業員活用やバーコードシステムの導入など、積極的な事業展開を行っている。 第6章 未来に向けて 第1節 介護用品事業の開始  平成**年、創業者の長男○○○○が第四代社長に就任した。創業者の下で帝王学を学び、晴れての就任であった。 新社長が取り組んだ新規事業は、介護用品のレンタルである。介護用品事業部を設置し、介護用品・福祉商品のレンタルの他、用品の販売、介護向け住宅改修をも行い、平成**年からは、老人ホーム向け私物クリーニング事業を開始した。 第2節 創業者の逝去と経営理念の制定  平成**年*月、創業者○○○○が逝去した。会社創立50周年目前のことであった。  創業者は、故郷から単身上京し、一代で業界を代表する会社を築いた立志伝中の人であり、また、人情と指導力を兼ね備え、多くの人たちに影響を与え、多くの有能な人材を育てた人であった。  現社長○○○○は、創業者の培った精神を後世に伝えるとともに、次の50年に向かって会社の軸となる経営理念を制定した。  当社は、この経営理念の下に、次の50年に向かって船出した。 48331中扉、章扉あり
特別企画扉111
座談会871
インタビュー421
一言メッセージ801
寄稿411
資料編801扉あり
年表社内の出来事・日本と世界の動き901扉あり
編集後記社史編纂チーム101
奥付発行:S社 編集:社史編纂チーム101
数字合計
112113