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社史編纂・記念誌制作

弊社の制作理念

社史の文章の本当の主語——社史の本質は「経営史」

 社史の文章の主語は「当社は」である。先に書いたとおりである。しかし「当社」とは何であろうか。これも考えてみると面白いようなやっかいなようなテーマである。

 「当社は順調に発展した」といえば「当社」は一個の主体ということになるが、「当社のA部門は発展したがB部門は衰退した」ということもあるわけで、この場合は「当社」は複数の主体の複合体ということになる。
 「当社は販売の拡大に奮闘した」と書けば社長も平社員も「当社」の一部となるが、「当社は人員削減を行った」と書くこともあるのだから「従業員」は「当社」に含まれないともいえる。
 それどころか「当社は経営トップの若返りを図った」ともいうのだから社長さえ「当社」に含まれないとも考えられる。

 いったい、「経営トップの若返りを図った」のは誰なのであろうか。すなわち社史の「本当の主語」は何なのであろうか。

 結局「当社」とは抽象名詞であるから具体的な実体はないのである。それが具体的な経営活動なり実務活動なりを記述するときに「主語」として「便宜的に」使われるということなのである。
 普通は主体があって行動があるのであるが、「当社」は何かの行動があって初めて生まれる主体であるといえる。

 こんなことを考えているとわけが分からなくなってくるが、実際に社史を書いている実感からすれば、主語である「当社」は単純に「経営陣」であるとして書くのが最も自然な文章となる。いくら「わが社は従業員が主人公」の会社であってもそうである。
 経営陣が本当の主語——これは常識的なことのようであるが、心していなければつい忘れてしまい、社史文章がまとまりを失う原因となる。
 会社は自治体でもなければ民主的な組織でもない。いわんや「家族」などでは決してない(「家族的」な会社はあるかもしれないが「家族的な会社」と「家族」は根本的に異なる)。
 会社はもっと違う原理の上に成立しており、多くの場合それは「経済原則」である。しかしそれだけではない。「社会原則」もあれば「政治原則」も大いに会社の「原理」になっている。ほかの「原理」もあるかもしれない。
 各々の原理で規定できるままに「当社」を主語とするならば、それは分裂概念になる。肝心なことはこれを分裂のままに置かず、「矛盾」としてとらえることである。
 「分裂」は背反にとどまるものだが、「矛盾」は一主体がこれを引き受けることができる。そこに「責任」が生まれる。分裂がもたらす最大の悪効果は「責任の欠如」であり、社史の価値を下げる致命的要因である。

 だからここは結局、「会社」が法的存在であることに注目して、会社の活動に法的最終責任を負うものを主語とするのが正解である。

 分かりにくく複合的で矛盾した「当社」の成立原理であるが、だからこそ「法的最終責任のありか」をもって主語とする。逆にいえば、「法的最終責任のありか」が社史文章の主語となるべきほとんど法的な「義務」を負うと考えるべきなのである。


 結局のところ、上記のような判断が、大多数の人々が無意識に持つ「自然な常識」であろう。それゆえにこそ、従業員よりも株主よりも社長よりも会長よりも「経営陣」、すなわち「取締役会」を本当の主語として念頭に置きつつ「当社は」を便宜上の主語として採用するのが現実的でまとまりのある社史文章を書く要諦となるのである。

 そして、ここにおいてはっきりすることは、「社史とは何か」という根本的な問いへの答である。社史とは、会社にまつわるあれこれの歴史上の出来事をただ記述したものではない。社史の本質は「経営史」である。その認識を持って書いてこそ、「会社の歴史」が初めて「社史」になるのである。

(追記)社史の主語は「当社は」であり、その「当社」は経営陣であると書いたが、社員も現場において経営者意識を持つことが求められる時代となってきており、そうした社員は社史において実質的な経営陣とみなすべきである。つまり社史の主語である「当社は」の「当社」に実質的に入ることになる。今後はさらに、競争社会の高度化に伴って社員の側にも単なる経営者意識のみならず「経営判断力」が期待され、判断が委ねられる状況が進展していくものと予想され、執行役員制度はその表れとみることもできる。こうした流れを受けて、「社史」も新しい「経営史」に変貌していくべきであろう。