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社史・記念誌制作と個人出版の牧歌舎

社史編纂・記念誌制作

弊社の制作理念

大原則

 社史とは、社史を知らない人のために書かれるものである。自分史もまた、自分の歴史を知らない人のために書かれるものである。これが大原則である。むろん、自らの歴史を振り返ることに何らかの意義を措定し、そのために回顧録をつくるという場合もあるだろうが、基本的には自分のことは自分でわかっているのであるから書き記す必要はない。
 知らない人のために書くのであってみれば、自分がよく知っている事であるからという理由で、知らない人に知らせるべき事実を書かずにおくわけにはいかない。

(追記)このことと関係があるのかないのか分からないが、ある会社の社史制作企画会議に参加したとき、一人の編纂委員から「実際に経営の役に立つ社史を作ろう」という提案がなされたのを思い出す。その具体的な内容は、「失敗をくり返さないために、過去の経営施策の中から失敗だったと思われるものをピックアップし、なぜそうした間違った施策がとられたかを徹底的に再検証しよう」というもので、責任者の実名も明記するという提案だった。
 やや過激な提案だったが、私はその趣旨には賛成だった。「温故知新」とは歴史を参考に新しい方法を考え出すということなので、その提案の方向性は正しいと思ったからだ。だが、ある施策について、「成功」か「失敗」かに分けるだけでは大切なことが見えてこないおそれもあることに言及した。批判が先行しては「故きを温ねる」ことが尽くされない。
 「決定論」という考え方がある。ある物事は、それに先行する物事を100パーセントの「原因」として起こった「結果」であり、次に起こる「結果」の100パーセントの「原因」になる、という考え方で、「運命論」とも言えるものである。
 「運命」だから、批判や評価や責任論はあってよいとしても、それで総括するだけでは足りないのである。そして、たとえ「運命論」が正しいとしても、良い「結果」を得ようと思えば、批判や評価や責任論も大事だが、それですべてではない、という余地を確保し、読者の自由意思が縛られないようにする配慮が必要ではないか、と思ったのである。
 すべてが「運命」であるとしても、人は未来を完全に予測できない。そうである以上、人はより良い「結果」を得るために、自由意思を最大限に活用しなければならない「運命」にあると思うのである。