元来、公明正大とか正確とかいう概念は面白みには欠けるものである。その理由は、正しさということが規範化されて、人間の自由がそのために制限されるという思いがするからである。
しかしながら、正しさの追求は元来自由の追求にほかならない。「正しさ」が人を制約するとしたら、それは不完全な「正しさ」である。
そして完全な正しさなど、歴史においてはきわめて稀ともいってよい。人間のやることは複合的であり、矛盾しており、時として秘密もあり、簡単につかめるものではない。そうしたものの集合体としての歴史となれば、「正しさ」のほとんどは未確定であり不分明なのである。
そうした状況下で正しさを追い求めていくことは、面白みに欠けるどころか、これほど面白いことはない、といえるだろう。社史も含めて歴史の書物が「面白い」としたら、その内容は本質的にはそうした「正しさ」に迫る面白さ以外にはない。そう考えれば、社史とは何かという問題に対する答も自ずから明らかになるだろう。
正しさに迫り、赤いものは赤い、青いものは青いと書く。本来はそのこと自体が面白く、難しく、意義があるのである。誇張したり、脚色したりで巧妙に面白いものを作るのは、ある意味では「うまい文章」かもしれないが、結局は誰にとっても虚しい行為であり、真実を伝えず虚偽を伝える社会的犯罪である。