社史とは「会社の歴史」を歴史的興味で書くものだと述べたが、そうではなく、関係者が会社への愛情を持って肯定的に書くべきものだとする考えにもそれなりの真実味がある。むしろ主語を「当社は」として現実に社史が書かれる場合、どこかに愛社心を秘めているのが当たり前とする立場もあってよいだろう。
しかし、そういう「愛のある社史」であっても、愛ゆえに歴史の歪曲や誇張、脚色などがあってはならないのは言うまでもないことである。
史実を追求し、かつ愛社心を発露させたいと願うなら、社史を「社会への貢献史」とする視点に立つほかはない。会社の立場に立つ社史を実現させるには、それが唯一の「本道」である。
会社の存在が、どのように社会にとって有益なものであったか。会社が、どのように社会に貢献してきたか。それをいかに検証し、文字化していくかということに情熱的に取り組むことにより、史実の追求が愛社心の発露となるのである。
ここで確認されるべきなのは、社史は「企業の自分史』」であっても、「個人の自分史」のように評価されるものではないということである。個人の「自分」は、文学的な観点から、時に反社会的であったり非社会的であったりしても意味のあり得ることとして認められるが、企業が反社会的であったり非社会的であったりすることは存在理由の喪失を意味する。個人は、必ずしも「世間様のお役に」立たなくても、またたとえ反社会的だったり非社会的だったとしても「意味のない存在」ではない。しかし企業はそうはいかない。社会の役に立たない企業はそもそも存在できず、また存在していても反社会的あるいは非社会的活動があればその存在は否定されなければならないであろう。
現実には、反社会的な行動をとって糾弾され告発される企業もあるのであるが、そうした会社の社史は、そうした汚点を大いなる反省点として確認し、基調としてはあくまでも社会に貢献してきた面を追求するものでなくてはならぬ。自分史における個人には「悪」である自由もある。社史として書かれる企業には「悪」である自由はない。ただ「善」——社会への貢献——をもってのみ、「愛のある社史」を書かれうる存在になるのである。