書き手がはみ出すというのは、書き手の個性がちらりほらりと見え隠れすることである。「正しい歴史を記述する」のであっても、語法はそのことによって必ずしも制限されるというものではないだろう。一定の約束事として踏襲的に表現される部分はマンネリというデメリットとともに安定感というメリットをもたらすのであり、書き手の自由にまかされた部分は、逸脱の不安というデメリットとともにユニークさ、新鮮さ、気軽さというようなメリットをもたらす。
オーソドックスの踏襲と逸脱。求められているのはそのバランスであり、かつ、そのどちらにも長けた職人性とアーティスト性である。
(追記)「踏襲」にせよ「逸脱」にせよ、求められるものはやはり文章力である。あるとき、ラジオでフィギュアスケートの実況放送を聞いて驚いた。およそ、フィギュアスケートなどというものは映像を見なければ意味がないと思っていたのだが、熟練のアナウンサーというものは「言葉」で聞き手の脳裏に映像を結ばせる。
「ワインレッドのコスチュームが銀盤の中央でくるくると回ります」
これは学校で教える「国語の表現法」の「描写」にあたるようで実はそれだけではない。「ワインレッド」「コスチューム」「銀盤」「中央」「くるくる」の言葉の選び方で巧みに聞き手を感動に誘っている。ラジオ放送もそうだが、大相撲の新聞記事でも一番の取り組みの勝敗までの経緯を簡潔にまとめているが、読むだけで状況が頭に浮かび、力が入る。これらは、文章の描写力を磨く上で大いに参考になるものだ。
だが、社史を書く場合に最も求められる文章力というのは、そういう水際立った名人芸のようなものではない(たまにはそういうものも混じってよいとは思うが)。
求められるのは、むしろ「普通の文章」を書く力である。これについては、エッセイ倶楽部のいい文章を書きたい!!で詳しく触れているが、肝心のポイントのみ引用すると、下記のようなことである。
「まず、普通の文章を書けるようにならなければならない。普通とは〈普く通ずる〉の意であり、最も強固であることを意味する。普通ということの深い力を、常に認識して、実現していくように努めるのである。
普通の文章とは、冷静で、的確で、過不足のない文章である。そしてなによりも、客観的な文章である。水が高所から低所に流れるような、当たり前の文章であるが、錬磨なくして書けるものではない」