社史は会社の経営史だが、その経営史はどういうものかと考えてみると、本質として3つの側面を持っているように思われる。
その第一として、学術的側面を挙げたい。
産業史の資料として重要である。社史は産業技術史、産業環境史を含めた産業発達史であり変遷史であって、将来の産業の可能性を考える上で欠かせないものである。学者の学問であると同時に事業者にとっても大きな示唆を得うる資料であり史料となることは間違いない。参考資料というよりは、むしろ第1次資料となり得るものである。
第二の側面は、広報的側面であろう。英語で言えばパブリシティ・ツールというべきものであって、「宣伝」の意味を捨て去って残る広報・告知・周知の手段としての側面である。『日本国有鉄道史』など官業に関するものなどは特にそういうものと考えられる。もちろんこれが産業史や文化史など学術的に利用されもするのだが、まずは「広報・告知・周知」に主眼を置いて編纂されるもののように思われるのである。
第三には、文学的側面というものも持ちうると考えられる。
社史を作ろうと思い立つ心事というものは、創業者やそのあとを継いだ経営者、退職社員などに聞くと「苦労話などを残しておきたい」という心情が多分にあるもので、そこには、
「忘れ去られて、なかったもののようになってしまうのが気持ちとして苦しい」という思いがある。また、読む側も「会社の昔の話を知りたい」と言うとき、事実関係と同時に「経営者や従業員たちの心情に触れたい」という思いがある。それは文学的興味と言ってもいいものだと思われるのである。
社史の制作会社の営業マンの多くは、盛んに、「社史を作る『目的』を最初にはっきりさせておかなければ方向がブレてしまいますよ」などと言って巧みに主導権をとって営業を成功させようとする。そしてその「目的」として、「会社のDNAを将来に伝える」だとか「アイデンティティーを確立する」だとか「会社を活性化させる」だとかの功利上の有用性をいろいろと挙げるわけだが、その前に上記の「本質における三側面」を理解していなくては、それこそ「ブレた」社史になってしまうのである。本質を外して何か恣意的にどうにでも作れるかのように社史づくりを見込客にもちかけるのは商法にすぎない。
本当に「社史のプロ」を自任したいなら、経営史が本質的に持つ側面をバランスよく理解したうえで、制作の意義を語れるだけの常識を備えてほしいものである。