貨幣経済下においては、公務員をはじめとする公的職業の人以外は自由主義資本主義企業社会の中で生活に必要な貨幣を確保することになる。企業の中には農業などの個人事業も中小企業も大企業も含まれるわけであるが、そうした事業の活動の総和である数字が増えれば繁栄であり、減れば衰退である。
国民の幸福というものは、経済面からみれば、そうした事業がまず安定的に存続し、できれば活発化し、少なくとも衰退せず、公平感のある分配が行われることで実現していくのである。
国民の幸福論というものはそれだけで完結するのだが、現代においてはその「国民の」という大前提があやふやになってきている。
社史というものも、あるいは企業記念誌というものも、そういうことを考えながら作られていくことになる。
まず、「国民の」と言えば「国民大多数の」というのが常識的理解であったものが、国民個々の間に格差が生じてもその「総和が」大きくなればよいという考えが勢力を持ってきている。
次に、「国民の」経済活動が、「国」としての繁栄よりも「国民個々の事業」の繁栄を優先させるという考えに変わってきていることがある。つまり、ある人はただたまたま〇国人という意味で「国民」であるにすぎず、それらの個々としての繁栄が「国民の幸福」とする考え方である。「国民国家」としての「まとまり」を自明の優先価値としない個人主義である。
これらのことと、「MMT」理論の関係性を考えてみよう。
MMTは「自国通貨建ての国債は破綻しえない」というものであるが、この国債発行で得られた資金を「国よりも個人の繁栄を優先させる私企業」に利益をもたらすような事業に投じることは是か非か。
そうはいっても、多くの国民生活に必要な事業がすでにそうした体質の企業によって行われているとしたら、「国よりも個人の繁栄を優先させる私企業」の繁栄に国債が手を貸すことにならざるを得ないわけである。これをあくまで拒否していく政策を貫くなら、これは社会主義体制の国にならざるを得ない。
人間の世の中には両極端の、相互に矛盾する「正しい理論」というものがあるのである。強者、あるいは自分は強者となり得ると考える者は弱肉強食優勝劣敗の自由主義を是とするし、弱者あるいは強者たることを求めない者は競争の制限と分配調整の社会主義、全体主義を是とすることになるのである。
両極端は、どちらも正しいし、どちらも間違っている。
その中で、弁証法的発展は続いていくのである。そのこと自体を妨げるものこそ、真の悪であり、誤謬である。これからの社史や企業記念誌は、少なくともそういう認識に立って経営の模索を記していくことが、制作意義とされることになるだろう。