自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

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社史・記念誌制作

弊社の制作理念

社史は会社の顔でありたい

 大江健三郎は子どもが障害を持って生まれたとき、この子が死ねば自分も消滅してしまうような感覚を持ったと言い、同時に、その反語的感覚において、自分が生きたこと、この子が生まれたことは絶対に否定できない「確かなこと」だと実感したとも言っている。
 私は、人間を含むすべての物質およびその運動は物理法則に基づくエネルギーの「現象」であって、それ以上、それ以下、あるいはそれ以外の意味は科学的にはあり得ないという結論に一応達しているのだが、ここでまた、ある種希望的な、アンチテーゼに向かい合ってしまった。

 法則があって現象があるとき、法則が本質であり現象は仮象にすぎないと決めてしまってよいものだろうか。

 現象は、大江が言うように、まぎれもなく「確かなこと」である。その確かさ、確かであることにおいて、「法則」のそれと全く同位ではないか。もし「価値量」というものがあるとしてそれを用いて比較ができるものであるとするならば、「法則=現象」が成り立ちうるのではないか。

 仏教では「色即是空、空即是色」ということを言う。これは私の基本的世界観と同一であり、科学的達観であると断言できるものである。
 しかしそこには大江が「確かなこと」というときの「確かさ」の価値が語られていない。「現象」が価値において「法則」とイコールであるという、真に科学的に公平な認識がない。「色即是空」は、少なくとも一般常識的には、「この世の出来事というのはすべて単なる現象(仮象)に過ぎないのだから、そういうものにこだわることなく本質を観よ」というが如きの不公平な世界観なのである。法則が原理的本質なら現象はその一面を見せた顔なのだから。

 真に「色即是空、空即是色」ならば「色=空」なのであって「色<空」ではないのだから、「色」はその真価を強く主張してよい。現象は、根源的に、法則と同位であり、同価値である。

 上記のようなことを考えながら、プロ野球の試合のダイジェスト録画を観た。すると、場面々々でクローズアップされる個々の選手の顔が非常に魅力的である。顔というものは、誰の顔も、実にいいものだなと思った。それが、大江の言う「確かであること」の力なのであろう。

 さて、そこで社史である。われわれが作る社史は、その会社の「顔」でありたいものである。顔が見えるテキスト、顔が見えるレイアウト、顔が見える装丁デザインでありたい。
 その会社らしい「顔立ち」や「表情」や「気配」が感じられる社史を作る楽しみを、社史作り職人として持っていたいと思う。