自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

社史編纂・記念誌制作

社史職人からのメッセージ

「国民統合の象徴」とは

 社史は歴史書であるという観点から、世界史と日本史の関わりの一テーマとして、日本国憲法における天皇の「国民統合の象徴」という規定について考えてみたい。

 日本国憲法の第1章は「天皇」である。大日本帝国憲法でも第1章は「天皇」であった。第1章というからには、真っ先に決定しておくべき最優先事項として掲げられているわけであり、現憲法においても最優先事項の位置づけがなされていることはまず認識しておかねばならないことである。

 「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
 これが大日本帝国憲法第1章第1条である。これに対し、
 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
が日本国憲法の第1章第1条である。
 つまり、現憲法下では天皇は国の統治者ではなく、統治権を持つのは国民だが、その「総意」によって「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」ということにされているというのである。
 この現憲法第1条の条文の半分は民主主義の表明であって、「この方針で行く」ということなのだから、別の半分「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという地位は国民の総意に基づく」も事実を述べたものでなく「この方針で行く」ということの表明ということになるが、とすれば、「国民は天皇が象徴であることにみんな賛成しなければならないという方針で行く」か、そうでなければ逆に「国民の総意がなければ天皇は象徴の地位にあってはならないという方向で行く」かのどちらかの方針表明ということになる。だが、どちらの方針で行くとも書いていないのだからそこのところは永遠に未決定なのだ。

   しかし、現実に「天皇」という地位が法的に存在していることからすれば、「国民の総意」があって天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるになる。
 ここで、「日本国の象徴」ということについては、例えば「富士山」や「桜」や「サムライ」が日本の象徴とされるのだからそれらと同様あるいはそれ以上にユニークな象徴とされていることに問題はないだろう。
 問題は「日本国民統合の象徴」とは何か、ということだ。
 これを、日本国民が統合している、あるいは統合されていることの象徴だとすれば、証明は困難だろう。政治的にも言論的にも百家争鳴であり経済的には利害関係の競争状態にあるのだからとても「統合」が実現している状態とはいえない。だから「統合していることの象徴」というのは無理だ。
 いや、それでも国としてまとまっていることの象徴なのだと言うのなら言ってもいいが、どこの国も一応国としてまとまっているがそのことの「象徴」などないのだから、「象徴天皇」は全く必要性のないものということになり、必要性のないものを規定する意味がなくなる。

 そこで私は、「国民統合の象徴」とは、「国民が現在統合していることの象徴」ではなく、「国民が統合することはないかもしれず、統合する必要もないのかもしれないが、さらに言えば統合しない方がよいのかもしれないが、もし統合することがあるとすれば、そこで国民が統合した状態を表現する象徴」という意味での「国民統合の象徴」と解釈するのが妥当ではないかと考える。

 聖域なきグローバル化が進む中にあって、国民国家という観念が現実的にも論理的にも解体されて「万人の万人に対する戦い」状態が是認されざるを得ない局面に国際社会というものが入っていくとき、国民国家を守る必要があるならいわゆるナショナリズムをも超えた次元での「国民統合」の観念が必要になる。グローバリズムが共産主義を超えた世界統治思想であるなら、国家主義を超えた地域民族独立主義の思想が必要になる。それはどこの国でも同じであろう。

 象徴というのは論理でなく、もやもやとした価値観や精神の傾向のイメージである。平和のシンボルが鳩だというようなものである。だが、それで人はつながり得る局面というものがある。少なくとも一時的にはあり得るのである。
 象徴天皇制というものは、こういう局面で、そのユニークなイメージ力において日本人にとってはけっこう強力である。ユニティを求めるならば活用しない手はないと言っていい。

 だから、国や企業や国民がグローバリズムに賛同するなら別だが、もしグローバリズムに対抗するのであれば、「国民統合の象徴」は十分に有効性を発揮するだろうと私は考えるのである。

 社史づくりにおいても、根底にはこうしたテーマが横たわっていることを認識しておくべきであろう。

2022.02.05 牧歌舎主人

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