記念誌と年史、周年誌(社史など)5

社史編纂・記念誌制作

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記念誌・社史よもやま話

5.記念誌に表れた記念式典(1)

(※周年記念誌の具体的な作り方については「記念誌・社史の制作手順」(準備~その1~その6)をご覧ください)

 記念誌がもともとは記念式典を文章化し書籍化したものだったことは先に述べましたが、それでは当時の記念式典(記念会)がどのようなものだったかを記念誌から見てみましょう。

 明治44年に出た『島尻教育部会二十五年記念誌』は、「沖縄県教育会」の中の「島尻郡部会」が発足以来25年を迎えたことを祝うものでしたが、会の発足は明治20年だったようなので、当時は足かけ25年目を迎えたことをもって節目としたようです。

 「教育会」というのは白石崇人教育学博士によれば「各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、各地における教育の普及・改良のために教育諮問・答申や教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体」で、いわば現在の教育委員会のようなものですが、法的根拠のない純然たる私的な団体だったのが面白いところで、全国に700以上もあったといいます。

 当時の尋常小学校はすべて国の管轄下にありましたが、そもそも明治5年の学制発布で村々に小学校が設けられたといっても財政難の明治政府にそれだけの資力はなく、建設費用などは村民が共同で拠出しており、子どもの教育については地域住民が進んで協力したことが窺えます。よく「明治人の気骨」ということを言いますが、他の国に負けないよう国力を高めるために、一般庶民も国と同じレベルの意識を持っていたということのようで、もともと教育熱心な日本人は学校の建設や運営をわが事のように捉えており、民間団体である「教育会」が各府県に続々と生まれて今の教育委員会のような役割を果たしたのはそういう時代意識によるものと思われます。

 そういう時代背景の中での記念会の模様が、『島尻教育部会二十五年記念誌』の「記念会状況」では次のように語られています(用字や表現を適宜現代表記に改めました)。

「明治二十年六月二十二日創立されたる当郡教育部会は、ここに四半世紀の星霜を重ねたるをもって、本月二十二日午後一時より東風平尋常高等小学校において盛大なる記念会を開催せり。左にその景況を略述す。
1.記念式
「只今より部会二十五年記念式を挙げます」との斎藤会長の挨拶によりて儀式は始まりたり。国歌の合唱、教育勅語・戊申詔書(1908年〈明治41年に日露戦争後の社会の動揺を鎮めるため発せられた詔勅。国民教化において教育勅語に次いで重要な詔勅とされた)の捧読あり。続いて斎藤会長式辞を朗読し、部会の過去現在の事業を述べて将来の希望に及び、会員一同の奮励を要求したり。次に十四名の善行者に対し表彰状と賞品とを授けてこれを表彰せり。沖縄教育会長岸本賀昌氏は当部会が社会教育に尽力せることを賞し、並びに善行者表彰が勧善上適切なる思い付きなる旨を述べ「徳孤ならず必ず隣あり。将来善行者のますます多く出でんことを望む」と口述して祝辞とせられたり。
 外間附属小学校訓導は森山師範学校長の祝詞を代読し本松首里男子小学校長は去る四月身体検査の結果疾病児童四十七パーセントに及べることを慨しこれがため学力増進を妨害せらるること多きを述べて以て祝詞に代えられたり。樋口芳生氏は善行者一同を代表して謝辞を述べ、将来ますます斯道のため奮励努力せんことを述べたり。
 右終わるや、斎藤会長の「記念式はこれで終わります」との挨拶によりて首尾良く終式せり。左にその式順、式辞及び表彰者氏名を挙ぐ」


(この項続く)



(※周年記念誌の具体的な作り方については「記念誌・社史の制作手順」(準備~その1~その6)をご覧ください)