「記念碑」や「記念品」、「記念式」、「記念会」という言葉はこうして広まっていったものの、「記念誌」というものはなかなか作られなかったようで、明治37〜38年の日露戦争後、戦死者を悼んで『日露戦役神奈川県記念誌』(1908)、『明治三十七八年戦役北河内郡記念誌』(1910)、また愛媛県今治の綿織物業発展の功績者を偲ぶ『故矢野七三郎君記念誌』(1911)が作られているのは、まだ「記念」に「かたみ」の意味が込められていたからと思われます。
反面、「芸陽西条観光団汽車旅行記念誌」(1909)という楽しいものも出されており、明治44年には東京・日本橋の完成を祝って『日本橋記念誌』も作られて、祝賀の意味での記念誌も行われるようになっています。この記念誌にも写真がたくさん使われていますが、写真技術、写真印刷技術の進歩も、記念誌が広まってきた大きな理由かもしれません。
このころ、日本の歴史に関わる記念誌として、大正元年(1912)に発行された『大喪記念誌』があります。いうまでもなく明治天皇の葬儀(大喪)を記録するとともに、明治天皇に関わる事績などさまざまな記事を掲載したものです。
崩御を悼む序文のあと、まず明治天皇の肖像画、続いて大正天皇と皇后、皇太后、皇太子二皇子の写真、霊柩車である「轜車」(じしゃ)と天皇葬儀用の輿である葱華輦(そうかれん)の写真、以下葬儀の総裁や皇室遺族の名代を務める皇族の人々に続いて重臣顕官の写真があり(山県有朋や東郷平八郎など)、以下桃山御陵までの行進の模様や沿道風景など総計約50枚の写真が続いています。
本文内容は、「御事歴」、「御年譜」(この中には生前発せられた勅語、勅諭、詔勅、詔書を含む)、発病から亡くなる前と後の出来事(践祚や改元、列国使臣の弔意、陸海軍への勅語など35項目)と続いた後、中核部分である「御大葬」の記録はまず「御大喪 前記」で「大喪使官制」「大喪使職員任命」から始まって「霊柩車建造」とか「弔砲六十発」とか「臨時議会召集」とか「御大葬式場の電灯」とか「英国儀仗兵参列」とか、さまざまの記事が90項目以上に上っており、大正元年8月の「第二十九回帝国議會」の項では大喪の費用についての臨時予算案が可決されています。当時の国民にとってどのように大きな規模の出来事であったかを知るうえで参考になるかと思いますので再掲します。ちなみにCPI(消費者物価指数)で換算すると当時の1円は現在では約3,000円に当たります。
「大喪費豫算提出
豫て元老會議に於て賛同決定せる大喪費豫算は明治四十五年大正元年度歳入歳出總豫算追加として二十三日貴衆兩院に提出せられたる其款項は
歳入臨時部
第十一款 前年度繰入金 金百五十四萬五千三百八十九圓
第一項 前年度繰入金 金百五十四萬五千三百八十九圓
歳出臨時部
大蔵省所管
第二十二款 大喪費 金百五十四萬五千三百八十九圓
第一項 大喪費 金百五十四萬五千三百八十九圓にして其各目は左の如し
一、幣饌及び儀品費九五、〇一三圓
二、營繕費七六一、〇四八
内、山作費(御陵工事)三八、五〇〇
工營費(葬場其他設備)六二一、三四一
鐵道設備費一〇一、二〇七
三、儀仗費三九、六二九
四、警備費九〇、五一六
五、調度費二一九、二八六
六、旅費一八二、二四二
七、諸手當一五七、六五五
計一、五四五、三八九
右に對し兩院共に満場一致總起立を以て即決確定し西園寺首相は直ちに参内して畏き邉りに奏上の手續を了せり」
続いて「御大葬 御当日 東京」では大正元年9月13日夜行われた「大喪の礼」などの記事、続く「御大葬 御当日 桃山」では霊柩列車によって京都の桃山御陵に運ばれた御棺の「御埋棺式」の様子が克明に描かれ、「嗚呼哀哉(ああ哀しいかな)。嗚呼痛哉(ああ痛ましいかな」で終わります。
このコアの部分に続いては「御逸話」となり、天皇幼少時からのさまざまなエピソードが紹介されたあと、「御製」300首が掲載され、「記念」の目的が十二分に達成されているようです。
さらに、これだけではなく、最後には「乃木将軍の殉死」という章が加わり、将軍夫妻の辞世の歌、遺言、知己に宛てた遺書、乃木将軍の履歴書がまとめられています。
明治天皇の大喪を記録した記念誌に、当時国内外で大きな話題になったとはいえ、乃木希典夫妻の殉死が特別に一章(12ページ)を設けて掲載されたというのはいかにも特徴的なことと思われます。のちに全国各地に「乃木神社」が作られたことも、乃木将軍への国民的敬慕が強かったことを物語りますが、当時の「記念」の観念に添うものとされた結果の掲載であったであろうことは、「記念誌」の本質を考える上で大切なことでしょう。
その「殉死」がどのように記念誌に記されたか、少し長くなりますが一部引用します。
「此日將軍は午前九時四十分常には乗馬のみにて参内せるにも似ず珍しくも夫人同道自働車にて参内し殯宮に参拝して同十時十分恭しく禮拝を終わりて帰邸したる上病と稱し英國
皇帝御名代コンノート親王殿下の接伴員たるにも係らず出仕せず自邸の奥の間深く立て籠もりて夫人と共に何事をか潜かに語り合ひ家人を立ち入らしめざりしが午後八時に至り怪しの物音將軍の居間に聞えたれば家人は驚き立ち入らんとしたるも内より鑰(かぎ)固く閉しあり容易に入ること能はず辛ふじて戸を排して内に入れば何ぞ圖らん西洋間隣室なる日本間の五疊、八疊二間の襖を取り除き奥八疊間に將軍は参内せる儘の正服を着け机上に帛(ぬの)を布き其の上に 先帝の御肖像を奉掲し威儀儼然としてして宮城の方に向ひ軍刀を以て腹十文に掻きさばきたる上更に咽喉部を刺し貫き刃先横に出で大動脈を切断して體も崩さず自刃し而して夫人は大將と相對して白羽二重の上に黒き喪衣を着け同じく匕首(ひしゅ——あいくち、懐剣)を以て咽喉部を貫き膝さへ崩さず美事なる最後を遂げ居たり而して 先帝御肖像の下には將軍の辭世二首夫人の辭世一首水茎の跡毫も乱れず認めあり」
とあり、有名な夫妻の辞世歌が紹介されています。
「臣 希典 上
神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる
うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」
「希典妻 静子 上
出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき」
希典は西南戦争のときに軍旗を敵に奪われた責任をとって何度も死のうとしますが、これを聞いた明治天皇から自決を禁止されました。
希典と静子夫人の間には4人の子供が生まれましたが、2人は夭折し、成長した2人の兄弟は日露戦争で戦死しました。
日露戦争後帰国した希典は、多くの兵を死なせた罪を負って死ぬ気でいたようですが、明治天皇から「私より先に死んではならんぞ」と諭されて思いとどまっていました。
そういうことですから、殉死は希典が早くから決めていたことと思われます。また、静子夫人には死後の後始末をさせるつもりだったことが彼の遺言からうかがえるのですが、「今夜だけは!」と叫んだ声が室外に聞こえたと言われ、希典と共に死ぬことを強く望んだものと思われます。
菊判236ページの大作であるこの記念誌は、大正元年9月25日印刷、同28日発行です。天皇崩御は7月30日、大喪は9月13〜14日でしたから、大急ぎで編纂されたものと思われますが、特に編集の最終段階である大喪当日に起こったこの殉死事件を取り入れるためには編集者も印刷所も大わらわだったことと推察されます。それを物語るように、この乃木将軍の記事12ページはいかにも急いで追加されたもののように巻末のギリギリいっぱいのところに挿入されていますが、これによって、この記念誌は明治天皇の「神上がり」(現人神の昇天)とそれに付き従った忠臣の記念誌というイメージを備えた作品になっています。
この『大喪記念誌』で、「記念誌」は公的な意味合いを確立したようで、以後、「○○記念誌」が陸続として公刊されるようになります。